いとし濁世
「何故床に寝ているんだ」
ふかふかのラグの上で横たわって天井を眺めていたら、例のごとく勝手にわたしの家に乗り込んできた男に文句を言われた。無視しながら、手を伸ばして自分の手の甲や、爪の形を眺める。この爪がもうすこし大きかったら、ネイルポリッシュも映えるのになぁとぼんやり考える。そんなわたしの身体を長い脚が跨ぎ、彼は部屋の奥のベッドへ座った。
「せっかくこんなに立派なベッドを買ってやったのに」
「あなたが勝手にね」
「あの貧相なマットレスはもう見たくない」
「わたしは困ってなかった」
ごろりと彼へ背中を向けた。目を閉じて、毛足の長いラグに身を埋める。きもちいい。あんなベッド無くたって、わたしはずっと前に買ったこの上等なラグさえあれば生きていけるのだ。
突然身体が浮く感覚があった。思わず声を上げてしまう。揺れる色素の薄い髪が視界に映り、そちらを見やればすぐそばにリゾットの顔があった。自分の見慣れた部屋を高い位置から見下ろすってのは変な気分。
「離して!」
騒いでもほっぺたをぶっても、帽子を脱がしてその辺にぶん投げても、彼は動じずにわたしを運びベッドへ放り投げた。すかさずさっきのラグに戻ろうとしたが、着ていたTシャツの首根っこを掴まれてすごい力でまたベッドへ戻される。なんなんだよこのクソでかいリゾートホテルみたいな天蓋付きのベッド!シンプルなデザインが好きなわたしの趣味じゃあないんだよ!
「風邪引くからここで寝ろ」
「ひかねぇよ!」
「オレも寝る。疲れた」
「……」
彼はそう言いつつわたしの腹周りを腕に抱えたままベッドへばたりと横になり、ほんとに目を閉じてすぐに眠り始めた。逃げようにも、わたしの腰の下に潜る腕にがしりと掴まれている。痺れたり痛くならないのかな?子供に掴まれたテディベアの気分である。
この大きなベッドは大柄な彼と平均身長のわたしが横になってもまだ余裕があるから、考えてみたらこいつはこのために購入したのかもしれない。以前の床に直に置いていたマットレスは彼一人でさえ激狭だったから、あの上ではわたしは彼の体の上に乗せられていた。どちらにしろテディベアである。
遠い記憶の中、母親が昼寝を嫌がるわたしを捕まえて今みたいに眠ってたのを思い出す。あれ?母親だっけか?教会の孤児院のシスター?どちらにせよ顔も思い出せないが、なんだか懐かしかった。そしてその時と同じように、わたしはやはり眠ることはできず、彼の短い爪を眺めたりしながら数時間をぼんやり過ごした。
「……ずっと起きていたのか」
3時間くらいだろうか。この部屋にある時計はわたしが昨日シャワーを浴びる時にバスルームの洗面台に放った腕時計だけなので、正確な時間はわからない。でも隣の彼がずっとぐっすりと眠っていたことはわかる。呼吸は穏やかで深く、体温はとてもあたたかだ。
「リゾット、そんなに疲れてるの?」
「別に疲れてない」
「寝る前に自分で言ってたよ」
「そうだったか?」
「まだ寝てていいよ。わたし静かにしてるから」
「おまえが眠れないんじゃあな」
彼はあくびをしつつ、横になったまま身体をこちらへ向けた。わたしのお腹を解放した腕で自分の頭を支えて、こちらを見下ろす。痺れてないようだ。よかった。
「わたしみたいな人間の横でよく眠れるね」
「オレにも不思議だ。おまえは誰の横なら眠れるんだ?」
「さぁ。人の前で眠ったことあんまりないの」
「難儀な女だな」
そう呟く難儀な男の頭を撫でてやった。自分よりも10近くも年上の目の前の男は、特徴的な瞳をやはり眠たげに細めてわたしを見つめる。じっとそれを見つめ返して思い出す言葉があった。
昔誰かに言われたのだ。かわいそうって気持ちと愛してるって気持ちを履き違えるなと。
「……早く、一緒によぉーく眠れるような、いい人を見つけるんだよ」
「それはおまえじゃあないのか?」
「バカな質問ね」
既に神様は罰当たりなわたしから睡眠ってものを殆ど奪ってしまっているのだ。彼もわたしも最低な仕事をしている自覚はお互いあるけれど、わたしなんて本当にろくな人生送らない自信がある。わたしはこのまま生きるしかないのだ。きっと、悲惨な死に場所さえも見つからないまま。これってたぶん、罰なのだ。
でも、彼は違う。常に多くを抱えたままいつもたくさんの人間に蔑まれたり頼りにされたりしているのに、こんな女の隣でしかちゃんと眠れないこの哀れな男は、少しくらい幸せになったっていいんじゃあないかなと思う。
この人の場合たぶん、最初に裏切ったのは神様の方だから。神に祈る母を見て、愚かに思った幼き日のわたしとは違うのだ。
わたしはずっとこのままでいいから、この人には素敵な誰かをあてがって欲しい。彼を慈しんで、心の底からどうしようもないくらいに愛して、その傷の全てを癒してくれるような誰か。男でも女でもいいからさ。そして、いつか彼に安楽なる死が訪れてほしい。それならば、わたしは今の死に損ないのまま、汚く生きていかなきゃいけなくても、構わないよ。
しかしこの男はやはり神様に裏切られていた。
「オレはおまえがいいんだ」
バカだなぁと思いつつ、再び難儀な男の硬い髪を撫でる。今度はそれに指を通して唇を寄せた。男はまるで待ってたかのように流れる動作でわたしの頭の後ろを掴み、肩を掴むとごろりと仰向けにさせた。唇が離れると、ベッドの天蓋と、身体を起こして長いジャケットを脱いでるリゾットの顔が見える。
「疲れてるならまだ眠りなよ、リゾット。わたし一緒にいてあげるよ?」
「おまえにも良い思いをさせたい」
この人ときっと、わたしは深く関わってはならないのだ。それでも、一緒に眠るためにここへやってくる彼を、わたしはどうしても愛おしく思ってしまった。いつも抱かれながら思う。ごめんなさい、と何度も心でつぶやく。
履き違えている。かわいそう、と愛おしい、をわたしたち二人とも。
「おまえと眠ってると、夢の中で聞こえる言葉がある」
「え……?っ、うっ、なに?」
また目を閉じて心の中で謝っていた。だけどその言葉に瞼をあげて、うつ伏せになってるわたしは少し後ろに首をもたげる。
わたしの頭のすぐそばに手をついてるリゾットとぼんやり目があった。わたしのほうはもう与えられる強い快楽に身を任せ、後ろから大きな身体を密着させて体重をかけている彼にされるがままになっている。
「誰かがオレに愛してると囁く」
「んなもん、ただの夢、だよ。まっ、はやくしないでっ……!や、やだっ、リゾット、あっ」
「必ず聞こえる。おまえの声だ」
それまでは長く時間を楽しむようなゆったりとしたものだったのに、突然激しく腰を打ち付けられてうまく喋れなくなる。
首をもたげることもできなくなり、枕を必死で握って首をしならせた。そういえばこの枕も彼が買ったものだ。お互い寝そべってる体勢はきもちいいところにばかり彼のものが当たるから苦手だし、ただでさえ体力があって身体が大きな彼との行為にわたしはいつでも精一杯だというのに。
「リゾットっ、この、この体勢やだっ……!変えて、…おねがい…ッ」
必死に訴えかけてもリゾットはわたしの頭や脇腹を撫でたりキスしているばかりで激しい抽送はやめてくれなかった。もう限界が近い、というところで枕を掴んでいたわたしの左手を彼がひっぺがして、その大きな手で包む。なんとかそちらを見やると、覆いかぶさる彼からキスをされた。それがあまりにもやさしかった。
「あ……っ!」
喉の奥から漏れるような声と、震える身体。無機質な薄い膜越しにもわかる吐き出された熱。わたしはそのまま眠った。眠ったというより、殆ど気絶してしまった。
これが狙いだったのかなって思った。確かにわたしも難儀な女だ。こんな風にしか、うまく眠りにつくことすらできないのだから。
そしてわたしも夢の中で不思議なものを聞いた。愛してるよ、という優しくとろけそうな言葉。彼の声だった。
題名:徒野さま