フルーツの皮を剥こうか
ナマエはシャネルの5番を柔らかに身に纏う女だった。
女の化粧品なんて知らないし面倒だと思ってるが、オレでも知ってるその香りがミーハーなくらいに有名なものだってこはわかる。流行りの服を着て、暇な時は雑誌を眺めてるような、美人だが趣味も性格も特徴が無く、あまりに人間性の厚みのない女の子に思えた。それだけだと灰汁の強い男所帯のチームでは浮きまくるはずだったが、存外オレたちは途中からチームへ入ってきたナマエをすんなり受け入れることができた。
「猫?」
視界に白い脚が見えて、顔を上げたらナマエがオレを見下ろしていた。いつのまにかアジトへ来ていたらしい。彼女はソファーに座って殆どうたた寝してたオレのまえにしゃがみ、両方の腕で頬杖をつきながら膝に乗ってる猫を見つめた。
「あばれてるよ」
「ん?逃げようとすっからよォ……」
オレが半分眠ってる間も無意識にその胴体を片手で掴んでいた猫は、ずっともがいて逃げ出そうとしていたらしい。おかげでオレの腕や膝は噛み跡やら小さな引っ掻き傷だらけだ。
そこへ伸びる、深く暗い色が塗られた美しい指先を思わず空いてる方の手で掴む。
「おっと。あんたも噛まれるぜ」
オレの傷を触ろうとした美しい手を猫が傷つけるのは嫌だった。彼女がするりと手を引くと滑らかな感触は名残惜しくも消えた。
しかしまた、その指先はこちらへ伸びてきた。2度目はオレの腕ではなく猫に触れた。
案の定彼女は猫の爪に引っかかれた。今度は止めなかった。ナマエの手の小指側の側面から、たらりと赤い血が細く流れる。彼女がその手を自分の顔に寄せて、赤い舌でペロリと舐める。それを瞬きも忘れてじっと見つめた。柔い皮膚はオレのものに比べてとても脆かった。
「……言わんこっちゃねぇな」
「けっこう痛いのよね」
その痛みを知ってるって風に目を伏せてそうぼやき、彼女は懲りずに手を伸ばして猫の首に触れた。すると今度は猫は彼女へ牙も爪も向けずに、身体の力を抜いてオレの腕に掴まれたまま膝に寝そべる。その触り方は穏やかで、猫って生き物がいつもそばにいたことがある人間の手つきであった。
黙ってナマエが猫を撫でる。猫は、オレが腕を離すと逃げ出して彼女の腕へと飛び込んだ。慣れた調子でそれを抱きとめて彼女がオレの隣に座る。その手は変わらず繊細に茶色の毛並みを行ったり来たりした。
いつも綺麗に微笑むが、冷たい顔をして黙りこくってぼんやりしていることもある。今が後者だった。多分そういう部分だ。オレたちがナマエという女に近しいものを感じ、すんなりと受け入れられた理由は。
ソファーの背もたれに肘をついて、甘える猫が彼女の腕の中で目を閉じるのを間近から見下ろす。彼女の手は猫が撫でられて喜ぶ場所の全てを知っているらしい。
「飼ってるのよわたしも」
彼女は黙りこくっていたのに、突然オレにそう話しかけた。相変わらずまつげは伏せられている。単純に美しく整った顔や振る舞いや性格ってのは薄っぺらく無個性に思える。しかし、オレには彼女がそういうものを無理に作り上げているように感じる瞬間があった。
「あんたが?猫を?」
「見にくる?」
「…………しょうがねぇなァ」
猫の頭の後ろに頬を寄せつつ、ナマエがこちらを見上げて微笑みかける。オレは笑ったまま手を伸ばして彼女の猫っ毛に自分の太い指を通す。それは艶があって柔らかく、やはりほんのりとシャネルの5番の香りがした。
ナマエの家には猫なんていなかった。
だけど黒猫の写真が貼ってあった。寝室の真ん中に置かれたダブルベッドの、ヘッドボードに一枚。無造作に透明なテープで止められていたそれは端が破れたり色あせてセピアになっており、いくつも画鋲を刺したことのあるような穴があった。確実に10年以上は前のものだろう。
オレは彼女をベッドへと倒しながらそれを見た。
「いたでしょ、猫」
「ああ、二匹な」
「もう一匹いたの?」
「ここにな」
不思議そうな顔をする彼女の唇にキスをする。脇腹をなぞって、猫の毛がついたシルクのブラウスの裾から手を入れる。
「あんたって、肌も服も触り心地がいいんだなァ」
「これでも頑張ってるのよ」
「いつも毛づくろいしてる猫みたいにか?」
彼女がくすくすと笑った。おれの頭を手の平と指先でざらりと撫でる。その手はここにくる前にオレが消毒して手当てしてやったガーゼが貼ってあった。
「知ってるか?猫アレルギーってのは猫の毛そのものじゃあなくて、猫の唾液に反応するんだと」
「ん……ああ、それで舌で毛づくろいしてるから、毛がダメになるの?」
「そーそー。あのざらついた癖になる感じの舌で。幸運なことにオレはアレルギーじゃあないから、平気だけどよォ〜〜」
今度は密かに笑う彼女がオレの首を撫でる。さっき猫にしたいみたいに。
通ってきた廊下にはハイブランドのショップバッグがいくつも並び、歩くと足に当たってガサガサと音を立てた。寝室には開けっ放しのクローゼットの周りに洋服や化粧品、靴や帽子などが溢れていた。しかし、そこ以外に人間が暮らしてるってわかる痕跡が無い。この部屋は食べ物も酒も本も、ソファーすらもなかった。着飾るためのものと少し大きめのシンプルなベッドと、そこに貼り付けられた猫の写真。それだけだった。
彼女はこの写真とともに生きてきたのだろうか。そう考えながら猫みたいに肌を温かくする彼女の中に入り込む。
「あなたって、存外優しいわ」
「そうか?」
「猫には酷いのに」
「優しくしてるつもりなんだぜ」
「……怖い人」
「オメーに言われたくはねぇな」
その言葉へ仕返しをしてやりたいと思ったオレの動きに、彼女が少し苦しげに顔を歪めた。それがかわいくてなん度も繰り返す。目を閉じて耐えるナマエの手が背中に伸びて、オレの固い皮膚を引っ掻いた。
その肌を暴いても5番の色っぽい香りは消えないが、なぜか少し違うものに感じられた。彼女が肌を汗ばませたからなのか、それともオレの中の彼女への印象が変わったからなのか。その肌に顔を寄せて味わってみれば、この香りはなんだか上品にも、かわいくも思えてくる。
隠しきれてないぜ。
知ってるか?香水ってもんはおんなじものをつけても、一人一人その香りは肌の上で微妙に変わっちまうらしい。そんなことを腹の中でつぶやく。
シーツの上で、定番の香水や流行りの服に隠れて、猫みたいに逃げ回るナマエを探った。その真髄を追い求めて。