Prayer
「なにか悲しいことでもあったの?」
「え?」
小さな声で、突然そんなことをきかれて驚いてしまった。チームのみんなでレストランでテーブルを囲んでいて、わたしはなんとなくみんなの世間話とは違うことを考えていた。顔を上げると鉛筆を持った方の手で頬杖をついたナランチャがじっとわたしを見下ろしていた。今日はフーゴが単身の仕事で外しているのでわたしが彼の勉強を見ている。だけどわたしは特別学があるわけじゃあないし、あまり教えるのも得意ではない。きっとアバッキオの方が何倍も上手だろうが、彼は性格的に適任ではない上にそもそも無関心だ。消去法でわたしなんかに教えられるナランチャには申し訳ない。そしてこんな状況下でも一生懸命九九を覚えるこの人は、本当に立派な男の子だと思う。
「ごめんね上の空だった」
「いーけどね別に。オレは今7の段攻略中だから」
「ああ、はは。登竜門だ。わたし今でも7の段て嫌いだなあ。苦労したから」
「ホントォ?」
わたしが笑って答えると彼も少し嬉しそうに笑ってまた自分のノートに向き合った。ある程度覚えたと自信がついたのか、彼はフーゴがマメに書いてくれた問題を上から一問ずつ説くことにしたらしい。たまにわからないのを飛ばしてたり、間違いが見えるけど、あとで教えてあげよう。
他のみんなは何やら熱心に女性というものについて談義している。ミスタは彼独自の謎理論を饒舌に語り、アバッキオはそれを結構真剣に聞いてやっている。ブチャラティもまあまあ話に参加しているのが愉快だ。そういう彼らを眺めていたら名前を呼ばれたので、またナランチャへ視線を戻した。
問題が全部解けたのかなって思ってたが、彼はただじっとわたしを見ていた。わたしたちはなぜか密かに少しの間見つめあって、運ばれてきたケーキによってそれは途絶えさせられた。
その日は少しゴタゴタが起こったので、チームのみんなは夜遅くに帰路に着いた。ナランチャはどうしてかわたしを家まで送ってくれるらしい。いつも一人で帰ってるのに。
「なぁ、きみはさぁー」
「んー?」
「何がそんなに悲しいわけ?」
「さっきも言ってたけど…どうしてそう思うの?」
「さぁ、わかんないけど。なんかきみってずっとそういう顔だろ?」
隣を歩くナランチャが徐ろにわたしの手を握る。そこに下心だとか性的なものは感じられなかったが、周りに比べると小柄な彼の手のひらは、それでもやはり硬い男の人のものだった。
「みんな悲しいことはあるでしょう」
「そうだけど。オレにはブチャラティがいるからなぁ。アバッキオもフーゴもたぶん同じだし…ミスタはなんかちょっぴり違う気もするけどさぁ、ブチャラティを慕ってるぜ。きみはそうじゃあないの?」
「……さあ。自分でもわからないんだよね。ブチャラティに心からの恩義があるし、みんなが好きだよ。……みんなのためなら死んでもいい」
「ふーん。あんまりわかんねぇけど、死に場所探すためのチームじゃあないぜ」
その言葉はわたしに重たくのし掛かった。少し前までわたしから小学三年生の勉強を教わっていた彼は、心を見透かしたかのような大人びた助言をわたしに与えてくれる。こんなわたしを、彼はただ心配してここまで来てくれているのであった。
「……女じゃあなくて、わたしを一人の仲間として見てくれるみんなと、ずっと一緒がいい」
呟くようにそう言った。その言葉はわたしの心の全てだ。突然立ち止まった彼によって、少し前に出たわたしは必然的に握られていた腕を引っ張られてしまう。振り返ると嫌に落ち着いた顔をしている彼と目が合った。ナランチャのひんやりとしたこの視線は好きだ。
「ごめん。オレは少し違うんだよ」
「なにが?」
「オレはナマエのこと、仲間ってだけじゃあなくて、女の子として見てるぜ」
そう言われながらわたしは思い返していた。自分を守ってくれると思ってた人間から振るわれた最低な、人間としての尊厳を奪われるような暴力。表面はいくらでも取り繕えるが、そういう経験がわたしを潜在的な男嫌いにしてしまっていた。
しかしブチャラティと出会ってからはそうでない男の人達を知ることができた。わたしを一人の人間としてみてくれる、対等な仲間たち。そしてそんな彼らの内の一人である、目の前の男の子から発せられるその言葉は、むしろわたしに胸の内から湧き上がるような温かな感情をもたらした。
ふふ、と自然に声を出して笑うと、彼は不満げに顔をしかめた。
「なんで笑うんだよォー」
「嬉しいからだよ」
石畳に少し爪先立ちして、さして身長が変わらない彼の頬にキスをするのは容易だった。感謝と敬愛を目一杯に込めて、彼の手を強く握りながら。
「ナランチャ、今からわたしの部屋で映画見ようよ」
「えぇ?あのさぁー…話聞いてたの?オレを家に入れない方がいいよ。オレは映画見ないし、きみに何するか…」
「ちゃんと聞いてたよ。ねぇきっと楽しいから。いいでしょう?」
両手を握ってそうお願いすると漸く彼も笑ってくれた。酒と食料を買い込んで、わたしは彼と共に自分の家へ帰った。彼が好きそうな激しいアクション映画を選び小さなテレビで上映して、ベッドに寝転びながらわたしたちはそれを鑑賞した。ナランチャは楽しんでくれたようで、夢中で画面から目を離さず、キラキラした眼を見せるその横顔はとても魅力的だった。
エンドロールが最後まで流れている間もわたしたちは喋らなかったが、同じ調子で名前ばかりが羅列されていた画面にはやがていくつかの社名のロゴが現れて、わたしのVHSは再生をやめた。
「面白かった?」
「うん。すっげえ興奮した」
寝転んだまま、枕に埋まってる彼を見やると子どものような笑顔を見せてそう答えてくれた。目を細めてそれを見つめる。
彼の方を向いて寝そべっていたら、ナランチャは徐ろにベッドを軋ませて上体を起こした。すぐそばに女の子みたいに綺麗な顔が近づいて、甘えるよう鼻先を触れあわせるものだから笑ってしまう。笑ったままのわたしの唇に、彼は慣れた感じで自分の唇を押し当てた。何度か啄ばむように、わたしたちは唇を合わせた。彼の手のひらがわたしの脇腹のすぐ横に置かれていて、落ち着くような、もどかしいよな、不思議な感覚。
「だめなんだぜ、女の子がこんな簡単に許すのは」
ゆったりと唇を少しだけ離したナランチャが笑いながらそう言う。優しさを携えた、他人を想いやれる彼はとても大人びて見えた。
「他の人じゃあ、違ったよ」
「ブチャラティでも?」
「…………」
「オイ〜!考えんなよなぁ!」
「ふはは、冗談だって。きみだからだよ。ナランチャ」
それからまた暫くキスをしたが、その日わたしたちの間に性的な交わりはなかった。別にわたしは構わなかったしむしろ乗り気だったのに、ナランチャはわたしを抱きしめたまま眠ってしまった。その腕の強い力も、触れる身体の体温もとても心地よくて、わたしも安心して眠ることができた。
朝目が覚めても癖毛の彼はわたしを抱いたままだった。この優しい男の子が、どうかこの先酷い目に遭わないようにと、今度はそんな祈りを込めて。跳ねる髪を撫でてから眠る彼の唇に柔くキスをした。