シリアス・プラン
数日間寝覚めが悪かった。なにか悪い夢を見ていたような気がするが、ベッドを出る頃には内容を忘れていた。睡眠時間も生活リズムもきちんと管理しているはずだが、そういうのが一週間ほど続いていた。
ドアを叩く音にすぐにどうぞと返事をする。そもそもこの部屋をノックできる人間は限られているのだが、こんなふざけた調子で音を鳴らす人間は一人だけだ。いや、一度それを面白がったミスタが真似してドアの向こうで彼女に成りすましたことがあったが。
しかし今回重厚な両開きの扉からのぞいたのは白い脚から伸びるブーツであった。怪訝な顔でそれを見つめていると、次に顔を出したのはやはりナマエ本人。何故か手の自由がきかないらしい彼女は行儀悪くも脚でドアを開けたようだ。
まるで周囲を警戒している猫みたいな足取りでそっと黒い革のブーツが柔らかな絨毯を踏み、脚の持ち主がするりと部屋に入ってくる。彼女はジャケットの中に隠し持っていた何かを取り出して意気揚々とぼくに見せた。
「パンパカパーン」
安っぽい効果音を言い放った張本人が片手に掴んでいるのはフランス南西部の土地で作られる名高い高級ワインのボトル、その首だ。反対の手には指に挟まれた二つの、よく磨かれたワイングラス。どうよと言わんばかりり両手のそれらを少し持ち上げて笑う。そしてテーブルに置かれたボトルのラベルを見て眼を見張った。
「驚いた。良い年代だ」
「我らがボスにプレゼント。わたしも飲むけどね」
良い葡萄ができた年に作られたそのボトルが乗った低いテーブルを挟み、向かいのソファーにぽんと座った彼女は、ぼくが目を通していた書類を暴虐武人な手つきで退かす。こういうことを平気でするのはいつものことだ。そしてごく自然な動作でグラスをひとつ差し出してきた。受け取りながら疑問を投げかける。
「どうしてコソコソ入ってきたんだい」
「だって!シンデレラワインだよ?絶対ミスタにはバレたくない」
ぼくのグラスに赤い液体を注ぎながらナマエがそう答えた。なるほど、確かにもしも今ここに彼がいたら取り分が減るどころかこの貴重な液体の半分以上が豪胆で食を愛す男の胃袋に流れ込むことになるだろう。
「Alla salute!(健康に)」
「…Alla salute」
彼女らしい乾杯の言葉に倣いつつグラスをぶつけた。神聖さを孕んだ心地よい音が広い静かな部屋を支配し、美しい赤い液体が揺れる。彼女はグラスに唇をつけてそっと一口飲むと、幸せそうにぼくを見て微笑んだ。ああたしかに、美味しいなこれは。同じ銘柄を以前飲んだことがあったが、年代が違うだけでこんなに味も変わるとは。
「きみはいつも突拍子がない」
「わたしの思いつきはみんなあなたの健康のためだよ」
「心配されなくても至って健康ですよ。アルコールが健康に貢献するとは考えませんし」
「そうだね、身体の健康には…」
含みのある返答だ。その言葉の真意を教えろと言わんばかりに前のめりになり、開いてくつろいでいた脚に肘を乗せて頬杖をついた。柔らかな背もたれに埋もれてワインをじっと眺める彼女を少し下の角度から見つめる。そういうぼくを見てナマエはいつものなんでもないって感じの顔をしながら関係あるような、全く別のような話を切り出した。
「わたし元気を出してって言葉は嫌いなんだよね。頑張れって言葉も」
「…どうして?」
「無責任だから。少なくともマイナスの方にいる人間に対して他人が身の振り方を命令するって、勝手じゃあない?」
「じゃあきみは、元気がない人間が目の前にいたら?」
「一緒にワインを飲んで、抱きしめてキスをする!」
そう豪語し、ワイングラスを高らかと掲げる彼女に呆れて吹き出すように笑ってしまった。いつも自分の独特な考えを曲げずに持っているこの子の口から、今日はどんな無駄なこじつけや屁理屈が飛び出すかと思えば。とても嫋やかで彼女らしいものだ。
「その理屈で言えば、今のぼくは元気がなくて心が健康じゃあないと」
「だってあなた先週くらいからずっとさびしい顔してるよ。わたしに秘蔵のこいつを持って来させるくらいに」
グラスを回して揺れる血のような液体を眺めた。この長らく栓をされて暗い場所にいたであろう、発酵した優秀な葡萄達は、まさかこんな10代の人間二人に軽い晩酌って感じで飲まれるだなんて夢にも思っていなかったことだろう。よかったじゃあないか、こんな魅力的な女の子に飲んでもらえるんだ。くだらないことを考えてからまた彼女を見遣る。
「それなら、ワインの次をお願いしますよ」
「えー…まだ飲んでるんだけど。面倒くさいからこっちに来てよ」
「なんて無責任で勝手な人だ」
「うそ、ごめんなさい。仰せの通りにしますとも」
また上体を起こして、グラスを持ったままやはりゆったりとした足取りでテーブルを回り込みこちらへ歩み寄る彼女を、体の力を抜いて迎えるためにぼくは片手のグラスをテーブルに置いた。
ぼくの脚を跨いで、彼女は正面にやって来た。彼女のお気に入りのジャケットに潜り込ませて腰に手を添えると腕が伸ばされ、かがんだ彼女の胸元に顔が抱き寄せられた。
ブラウス越しに胸の柔らかさと温かさを感じる。触れ合う面積が物足りなかったので腰を引き寄せて、スカートを履いた腰を膝に座らせた。開かれた太腿やら尻やらが密着する。ナマエの手からグラスを奪い、それの中身をグイーッと一息に飲み干してソファーの肘掛に置いてしまうと、彼女は喚いた。
「うあー!わたしの!」
「ぼくにくれたんだろう。キスは?」
「…はいはい、もちろん」
強請るぼくに密かに笑った彼女が額にキスをおとす。視線で違うだろうと伝えると、首を捻ってから柔らかく唇を重ねてくれた。角度を変えて何度か交えて、頭の後ろを愛撫するように撫でる。グラスを手放したお陰で彼女が背中に回した腕でぎゅうとぼくを強く抱きしめてくれる。その感触や体温や匂いを感じると、今朝感じた凝り固まった気持ちが解れていくような気がした。
「ねぇジョルノ。今日は素敵なワインで酔っ払って、早く寝ちゃいなよ。わたしができる仕事はやっておくよ」
「急ぎじゃあないから問題ないよ。それより今夜はぼくと一緒にいてください」
「いいね。楽しい夜にしよう」
彼女の言葉通り、とにかくふざけていて愉快な夜だった。ワインにキスにハグだけでは終わるわけは無く、もちろんベッドの中でも十二分に楽しんだが、そこに至るまでや、その合間には、ドルチェやら、音楽やら、それに合わせた彼女考案のバカみたいなチークダンスの真似事やら、他にも諸々が追加された。ぼくは気がついたら眠ってて、大して長く時間が経っていないのにすっきりと目が覚めた。あのここ数日の起きがけの倦怠感やら焦燥感は消えていたが、代わりに夢の内容はうっすらと覚えていた。
もう数年前のことになる、あの刹那的で奇妙な冒険を共にした者たちの夢であった。彼らが笑ってぼくに何かを話しかけたが、投げかけられた言葉は覚えてなかった。それでいいのかもしれない。
以前ドアのノックを偽装して成りすましを成功させたミスタは、デスクからドアの方に顔を上げたぼくを見て子供のように笑っていた。おまえ、彼女にはそんな顔してるんだな。そう言ってゲラゲラ笑う彼を捕まえて一発殴ったのは記憶に新しい。
朝になっても彼女は中々ベッドから出てこなかったが、その寝顔もまた気持ち良さそうで、見ているだけで深く呼吸ができるような気がした。一時的に健康で元気な18歳へと戻ったぼくは窓を開け、入り込んできた風と一緒に彼女の頬を指の背で撫でる。感謝の言葉を小さく呟いた。この穏やかに眠る女の子の元気が無くなった時には、ぼくはどんなワインを持って行こうか。そう考えるのは筆舌に尽くしがたいほどにわくわくとしたし、彼女もそんな気持ちだったのだろうかと考えた。