エメラルドシティはきっと遠くない
「露伴先生」
「なんだい」
「なぐっていい?」
「ダメに決まってるだろ」
返事をしながらも彼はペンの動きを止めなかった。背中に向かって喋りかけるってのはなんだか虚しいものだな。
「オイ貴様!ほんとに殴る奴があるかッ!?」
「なんでわたし呼ばれて来たのに、あんたは漫画描いてんの」
「いいだろべつに」
「良くないから殴ったんだけど」
殴られた頭をさすりつつ彼はまた執筆に戻ろうとするので、再び殴ってから部屋を出ようとした。しかしまるで透明な壁かなにかがあるように、彼のアトリエと廊下の間の敷居を境にわたしは弾かれた。後ろに倒れこみ、彼の方を振り向くも驚いた様子もなくペンを走らせたまま。わたしがすっ転んだ音は聞こえだろうに。こいついつの間にかスタンドをつかいやがった。諦めてソファーに深く座って腕を組む。自分は今ムッとした顔をしていることだろう。
なんだこのソファー…きもちいいな。やることもないのでテーブルに置かれた重たい本を開いてみることにした。裏返しに置いてあってなおかつ裏表紙は剥がれかけていたからわからなかったが、それはわたしの一番好きな画家の見たことのない図録であった。
夢中で美しい絵画たちを眺めた。きちんと完成したものだけではなく、その本には画家の殴り書きのスケッチだとか、小さく書きこまれた文字なんかも載せてある。フランス語で書かれた作品解説を読むのは骨が折れたが、時間をかければぼんやりと概要を掴むことはできる。文章自体は多くないが面白い解釈で展開されていた。どうして彼がこんな本を?この人って、なんでも持ってるんだろうか。
最後のページまで見終えて、顔を上げるとデスクの奥にある窓の外は真っ暗だった。こんなに時間が経っていたなんて。そして隣を見やれば足を組んでソファーに座り、紅茶を飲みつつわたしを見下ろす岸辺露伴。
「ずいぶん集中してたな」
「…おもしろいわこの本」
「そりゃあよかった」
「なんでこんなものを持ってるの?わたし海外で絶版になったのだって、教授のコネ使ったりして集めてたつもりだけど…」
「フランスの老舗古本屋で見つけたんだ。これは少ししか刷られなかったから珍しいんだと、店主が言ってたよ」
「でもあなたこの画家嫌いって言ってたじゃない」
「……きみって本当に理解力に乏しいな。大学でなに勉強してるんだ?ぼくはこれをきみのために買って来たんだろ」
意味がわからなくて訝しげな視線を投げかけてしまった。この男、一体いつもわたしをどうしたいのがよくわからない。今日だって緊急だからって言われここへ来たのに漫画描いてるし、テーブルにはわたしの好みの本が置いてあるし。素直に疑問は唇から漏れた。
「なに…あなた、何がしたいの?」
「そこんとこだが、僕にもよくわからないんだ」
なんだかどこかで聞いたセリフだなと思いつつ、テーブルのソーサーにティーカップを乗せた彼の手がわたしの前を通ってソファーの縁に触れた。あんまり流れるような動作だから違和感を感じないまま、背もたれに再び沈む。露伴先生の顔がすぐ近くにあった。
「先生…なんなのあなたは」
「その先生って、やめろよな。僕たちは殆ど年も変わらないだろう」
性的な雰囲気を感じた。こういう男の人が突然空気を変える感じが好きではなかったが、なんだか彼とのは嫌ではなかった。
柔く始まったキスを少しずつ深いものにしながら、ソファーに寝かされる。重たい本を丁寧にテーブルへと戻してくれた彼の手がわたしの体をまさぐりだした。そこでわたしは一つ重要なことに気がつく。
「せんせ……露伴くん。すこし問題が」
「なんだよ、せっかくのムードを壊すなよ」
ムードとか大切にする男って嫌いではない。しかしわたしは問答無用に続けた。
「わたし今日の下着まじにセクシーなやつなんだけど、これは個人的な趣味であって、断じて尻軽女ではないので」
「…嘘でもぼくのためくらい言えよ」
「死んだおばあちゃんから正直に生きろと教えられたの」
「この状況でおばあちゃんの話出す?きみは男に押し倒されてんだぜ?」
不機嫌そうに眉をひそめる彼に思わず口を開けて笑ってしまった。それを見た彼もちょっと目を丸くした後に柔く細めて、口の端を持ち上げる。こういう顔を初めて見たなとたぶんお互いに思ったのだ。
「それじゃあ、その趣味のセクシーな下着とやらを拝見しようかな」
「どうぞ。今日のはほんとに自信あるから、あなたはラッキーだよ」
結局一瞬で丸裸にされ、高かったお気に入りの下着は床に放られた。なんだかおかしな始まり方だったし、これからどうなるのかなんて見当もつかないが、わたしは生涯あの本を手離すことはないだろう。それだけがわかった。