夜を駆ける
「痛い」
自分の口からそんな言葉が漏れたのは、彼の部下たちとさいしょに食事をしているときだった。
「何かあったのか?」
となりにいたブチャラティは何気なくわたしにそうたずねる。なんでもないよと首を振れば彼はそうかと短く答え、自然に他の彼らとの会話に戻った。わたしの返答はほんものだった。だってなぜそんな言葉が突拍子もなく出てきたのか、わたし自身が一番わからないのだ。わたしの体は至って健康体で、痛みを感じる箇所は一つもなかった。だからそういうことがあったなんてわたしはすぐに忘れた。それから一年くらいして、ブチャラティと一緒にシマの中でのいざこざを諌める仕事を終えて彼の車で帰っているとき。助手席に座るわたしはぼんやりと、遠い街の灯りで光る海を眺めていた。夜車に乗るのが好きなわたしはご機嫌だったはずなのに。
「痛い」
助手席に座るわたしの口はまたそんな言葉を吐いた。その言葉が耳に入った途端にブチャラティは車を道の端に停めてしまった。もう安全に帰るだけだってのにわたしは何やってるんだろうか。思わず口元を押さえて彼を見上げると、神妙な面持ちでこちらを見下ろしている。
あれ、前にもわたしこんなことを言ったな。そういえば。
「…どこかやられていたのか?」
「違うの、なんだかゆってしまっただけで」
「銃弾が服を掠ったと言っていたが、本当は傷になっていたんじゃあないだろうな?見せてみろ」
運転席から乗り出してきたブチャラティから距離をとるが、すぐに助手席のドアガラスに頭と背中がぶつかる。 彼の顔がすぐそばまでにじり寄っていた。冷静で表情は崩れていないが、すこし訝し気な顔をしているように見える。
「違うわ、あれは本当にジャケットにかすっただけよ!気に入った服だったから愚痴っただけ。ていうか、あなたやミスタだってよく撃たれてるじゃない!」
「銃創を甘く見るんじゃあねぇ。俺たちとお前の体じゃ耐久が違うだろ」
否定も抵抗も虚しく、ブチャラティはわたしの服に手を触れるとまずジャケットにスティッキーでジッパーをとりつけ、ボタンも外さずに脱がせた。ばさりと座席シートに落ちる、わたしが苦労して買ったディオールのオーバーサイズジャケットには脇腹と肩に銃弾が掠った跡が…。明日お直しに出そう。彼はわたしの腕やジャケットの中に着ているノースリワンピをじっと手で触れたりして改めた。ロングのワンピースだったが、タイトなデザインゆえ体の線は見えている。こちらは服を脱がされている状況にじわじわと変な気分になってきたってのに、対するブチャラティは至極真面目な態度でことに当たっている。この人、こういうところあるよな。だから老若男女にモテるのかもしれないけど。
ワンピースを確かめ終わってホッと一息ついていたら、今度はハイネックの首もとから裾まで長いジッパーが取り付けられた。そのジッパーが上から開かれていくのを眺めながら、もう諦めているわたしはこのワンピースにジッパー取り付けるとモードっぽくて可愛いんだな、なんてぼんやりと考えた。
「たしか脇腹と肩だったな?」
彼は平気で下着だけになったわたしの脇腹に触れた。何も傷がないことを確認すると、なぜかそのまま脇腹を掴まれて彼の身体へ引き寄せられる。ぞわりとした刺激に肩を揺らす。ブチャラティの肩に顎が乗って、彼と上半身が密着する。ああ、背中を調べてくれているのか。抜かりない男だ。
「問題なさそうだな」
ふつうに黒のレースのブラに、それとセットのふつうのソングのショーツ。お気に入りのもっと際どい下着をつけてなくてよかったと思ったが、つけてきたほうがよかったのかもしれないなとも思った。これってもし誰かが車の側から見たら下着姿の女ときちんとスーツを着込んだ男の二人が抱き合ってることになるけれど、実際中でやってる内容としては小さな子供の身体を洗ってるみたいなものだ。
なんか不服だ。他でもないブチャラティに肌を晒して、皮膚を撫でられて。こっちばっかり変な気分にさせられる。原因は変なことを口走ったわたしにあるんだけれど。
ブチャラティは熱心な検診を終えたのち、きちんと丁寧に服を着せ直してくれた。子供にするみたいに袖を通させて、ジッパーをあげる。跡も残らずわたしの服は元どおりに戻った。スティッキー・フィンガーズは便利にできているなぁ。なんでも切開して深くを探ったり、中に簡単に入ったり。この人にぴったりな能力だと、わたしはいつも思う。
彼は服を着せてくれたあともわたしの右肩を掴んだままだった。
「悪かったな。お前は妙な嘘をつくことがあるから、心配になった」
「…妙な嘘?」
「自分の弱みを隠す嘘をつくだろう」
胸に軋むような違和感を覚えた。その言葉は的確にわたしの胸の内の核心を開いて覗かせた。彼は躊躇いなく続ける。
「例え能力で俺たちに黙ってることがあったって構いやしねぇ。それは切り札で、知らない方が上手くいくこともあるからな。俺が言いたいのは助けが必要な状況で俺たちを頼れずにいたら、いつか自滅するってことだ。チーム全体もな。お前は他人に迷惑をかけることを覚えるべきだぜ」
彼はわたしの目を見ながら最後に、俺たちを信頼しろと言った。そこだけは強い口調だった。
実際のところ、わたしがこの世で信頼している人なんて彼らだけだった。わたしにとってはボスなんて、パッショーネなんて心底どうでもいいのだ。だからこそブチャラティ達の足手まといにも迷惑にもなりたくない。役に立つ必要な、都合のいい存在でいたかった。だがブチャラティにとってみたらそれは信頼とは呼べないみたいだ。
わたしの胸に、針で刺したような痛みが走る。開かれて冷たい外気に晒されたことで何かが痛むのだ。ちくりと鋭かったそれは少しずつ大きな痛みになり、やがて心臓を掴まれているかのような鈍く大きなものになった。これはあれだ、自覚したらもっと虫歯の痛みがつらくなってくるみたいな、そんなようなものなのだろう。
胸を抑えて前のめりになる。彼の胸に額がぶつかった。わたしの変化に驚いたブチャラティは両肩を掴み、名前を呼ぶ。少し焦ったような声色だった。本当に優しい男だ。
「どうしたっていうんだ?胸に傷はなかったが…病院へ行こう。俺が世話になってる医師なら夜中でも看てくれる」
「ちがうの、病院じゃあ治らないわ………」
わたしが泣いていることに気がつくと、肩を掴む手から力が緩められた。こんな醜態を彼に晒すはずではなかった。こんな自分は隠して、だれにも見られたくなどなかったのに、他でもない彼に見せてしまっているではないか。すらっとした腕が緩慢な動きでわたしの体に巻きつく。ああ今度こそ哀れな子供のようなわたしを抱きしめてくれるのかもしれない。しかし彼がくれたのは穏やかな抱擁ではなく、長いキスだった。
わたしは泣きじゃくったりはせず、少しだけ涙が出たっきりだった。最後に泣いたのはいつだっただろうか。どうして、こんなところで出てきてしまうのだろう?どうして、彼は今、こんな脈絡もなくおかしなわたしにキスを?シャボン玉みたいに浮かび上がった疑問たちはわたしの頭の上をふわふわ舞う。
唇が離れた時、ブチャラティはまだ濡れているわたしの涙の跡を指先で拭った。何を意図して彼がそういうことをしたのかわからないし、自分がこの男に対して抱いている感情にも名前をつけがたかった。ブチャラティは一息おいて、わたしの名前をまた呼ぶ。
「…さっきのは、上司としての助言だった」
本当に、スティッキー・フィンガーズは彼にぴったりのスタンドだと思う。
「しかし今はそうじゃあねぇ…キスしたのは俺という男がやった。そしておまえは命令に従う部下ではなく、拒否する権利を持った一人の女だ」
だって彼はわたしの心も切開して、気づけば当たり前のように無意識に入り込んできてしまったのだから。
なんだか体の力が抜けてしまっていた。目の前のブローノ・ブチャラティという男の言動に全ての意識を注いでしまっている。うっとりと、彼に酔ってしまっているのだ。この感覚はは憧れだとか尊敬だとか、そういうものの延長線上にある何かなのかもしれない。
「その上で言う。おまえの痛みを俺にも教えてくれ」
胸がまた強く痛んだ。今度こそ彼はその腕にわたしを抱きしめてくれた。