残された惑星と消えない恒星
いくつかの種類の花を選び、目の前で花束にこさえてもらったそれを彼女が受け取る。初老の女店主は花の代金を受け取ることを笑顔で断ったが、彼女は多すぎにも思える紙幣をカウンターへ起き、ぼくの方へ振り向いて戻ってきた。彼女のヒールのないサンダルが石畳を蹴る。
「ここは僕がいた街に似ているよ」
「まさかネアポリスの?」
「ええ、ご名答」
「いいね、あそこは良い街だよね。海があって、人に活気があって、ピザがおいしくて。あそこで組織に所属してたブチャラティって男に会ったことがあるけど、彼は魅力的なひとだったな…」
坂道を下りながらそう話す彼女の言葉に耳を傾けた。道に沿った家々の塀には明るい色の花が咲き乱れている。庭の木がつけた花が塀の外へまで顔を出しているのだ。この風景はなかなか良かった。気がつくと彼女もそういうのを眺めていた。
「ずいぶん自由に振舞っていますね。幹部の者達は大抵自分の身を公に晒さないものだと思いますが」
「あなたに言われたくはないけど…。わたしのスタンドは結構鼻が聞くのよ。だからわたしはあえてみんなに顔を知らしめてるわ。こうしてわたしが歩いてることで統括地の治安維持になるのなら、なんだっていいの」
彼女は先程から頻繁に街の住民から声をかけられていた。軽い挨拶だとか、困りごとの相談だとか、それらは多岐にわたるが、中でも驚いたのは小さな赤ん坊を抱いた女が駆け寄ってきて、彼女の腕に抱かせたことだ。産まれたんです、名前をつけてください、だなんて言う女はナマエとあまり年が変わらなそうに見えた。彼女は本当に穏やかな顔で腕の中の赤ん坊に話しかけた。ステキなママのもとに来て良かったね、大きくなるんだよ。それはとても優しい口調だった。そして最後に綺麗な名前をひとつ、丁寧に呟いた。母親は涙目になって何度も彼女に頭を下げた。
彼女は花束を代わりに持っていた僕に礼を言って受け取ろうとしたが、これは僕が待ちますと答えた。
僕たちは特に申し合わせもなく、なんとなく港に向かって歩いた。あたたかな風邪がふたりの髪を揺らし、清々しい気持ちにさせた。ああなるほど。風が似ているのだ、僕の故郷に。
「どうしてこの世界に?」
「成り行きよ。志も大義名分も何もない。この道か、体売り続けるかの二つだったからね。幸いスタンドが発現したからわたしは下っ端になれた。楽なもんだったよ、下らないやつらを締めるとか、簡単な仕事ばかりまいにち適当にやればいいんだから…その頃のこの街は最低だったけど別にどうでもよかった」
「でも幹部になるのは楽な話じゃあない」
「そうね、そこなのよ。大変だったのは」
気まぐれでこの街へ来たが、まさか幹部の女がその辺の道を歩いているだなんて思わなかった。奇妙な遭遇をしてしまった僕らは、まるで約束してた男女のように自然に街を歩いて喋っている。
少し前にミスタに言われた言葉を思い出した。少しは無駄なことを覚えろと。じゃなきゃ機械と変わらない。まあそれはもっともな意見だ。花を買ったり赤ん坊を抱いたり、彼女の無駄に思える行動がみんな、この街の風を作っている。それと同じかもしれない。
「ブチャラティが幹部になったって情報が入った後に、組織を裏切って、すぐに死んだって聞いた。妙な気分になったわ。今までわたしの周りの人間は散々死んだし、自分も裏切り者を始末してきたくせに、それなのにあの男の死はわたしに何か影響を与えた。…それから必死で腕利きのスタンド使いを部下に集めて汚いこともして、幹部になったの。あの人ほどの人望はないけど、この街は前より良くなったと思う…」
僕がかつて知りうるこの街は酷いものだった。いつだって臭くて汚くて、麻薬に全てを侵された人間がその辺に転がっていたり、路地を一歩入れば誰かが殴られて財布を奪われていたり、女が強姦されていたり。彼女は幹部になり上がってからものの数年でこの街をここまでのものにした。いや、ずっと幹部になるための資金集めや仲間集めと並行して動いていたのだろう。彼女の実力や人望が確かなことはよく知っていたが、それの裏付けこそが僕が短い期間を共にしたあの忘れることのない男であったとは。
「ボスはもっと難しい人だと思ってた」
「実際神経質なタチだと思いますが…違って見えるといいたいんですか?」
「うん。赤ちゃん見てから顔が優しくなったよ。ねぇ、ジェラート食べない?」
「……いいですね」
彼女は軽く答えたが、僕にはその返答が印象強く残った。ブチャラティの生き様が僕や彼女に意志を継がせたように、彼女もまた僕に影響を与えるのかもしれない。もしも彼女が死んでも、この街がどうなっていくのか、あるいはあの赤ん坊がどのように成長していくのか、僕が守ろうではないか。そんな風に思わされるくらいには、彼女は輝く精神で生きていた。