Orange in Blue
ひとつひとつなくなっていって、最後にはなにが残るだろうかと思う時もあった。いつからかそう思う気持ちもなくなってしまっていた。
「エスプレッソ」
カフェのカウンターで注文をした男は午前の陽気に似つかわしくない眼や表情をしている。あまりじっと見ては失礼だと思い、トレイに代金を貰うとすぐにコーヒーを用意するために視線を落とした。人々が出社する時間が終わった後の店内は静かで、客もまばら。カウンターにはわたし一人だった。
テイクアウト用の淹れたてのコーヒーを差し出すと、彼がそれを受け取る。少し気を抜いていたわたしの手を、突然伸びてきた男の反対の手が握った。
息を呑んで目の前の男をカウンター越しに見つめる。
「知らねえフリするこたぁ、ねぇだろ」
男は呆れたみたいに笑っていた。親指の腹が手の甲を撫でて、それから男の硬い手のひらは離れ、彼はわたしにしか聞こえないくらいに小さくささやくと、店を後にした。
今夜空いてたら会おうと、先週と違う電話番号を渡しながら、彼はそう言っていた。
少し考えてから、仕事の合間に彼に電話をかけた。仕事の終わる時間を告げて、ぷつりと切られる。家についたらアパートの前で彼がタバコを吸っていた。
部屋に入るとすぐに、乱暴に腕を掴まれて引っ張られる。熱っぽいキスをされたかと思ったらベッドに強引に押し倒された。ネクタイを緩めながら微笑み、こちらへ覆い被さる彼を期待して見つめる。
☆
いつの間にか眠っていた。目を覚ましたらプロシュートはベッドからいなくなっていた。まだ夜9時くらいかな。明日カフェのシフトはないし、もうこのまま今夜は眠ってしまおうかと思いながらベッドの中からサイドテーブルに手を伸ばして携帯電話を手にする。
メールが1通届いていた。本文にはただ、ホテルの名前と部屋番号、時間が書き記されているのみ。
いつも通りそのメールを削除して、ベッドから起き上がる。すぐに身支度を始めた。
すごく遠くで雷の音が聞こえた気がする。真夜中から大雨になるらしい。
☆
バタンと大きな何かが倒れる音で目を覚ました。
いつもだったら薬のせいでやけにけだるくて、一度起きても眠たくてすぐにまた瞼を下してしまうのに、今は瞬きもできずにずっとそれが聞こえてきた扉を見つめていた。
これは夢の中であろう。時々自分が夢を見ていることに気がつく、あれが起きているんだと、そう思った。だってあんな物音ひとつでなぜこんなに嫌な感じがするんだ。
逃げられない。未だわたしの両の手首はベッドに繋がれているというのに、扉の向こうから足音が近づいてくる。
両開きの大きな扉が開かれ、煙が入ってくる。煙と共に現れたのは男だった。その男はドアのところに立ち尽くして、薄い書類ケースを片手にわたしを見つめた。扉の向こうは何故か霧がかっているかのように霞んでいて、投げ出された男の足が見えた。
煙を切ってこちらへ進んできた男は足を止める。それと一緒に煙が彼の後ろへ消える。
ギラギラと光る瞳がわたしを見下ろしていた。その瞳はわたしの肌の上を滑り、ベッドの上、身を隠すものもなくわたしは転がっている。
「ナマエ」
窓の外で雷鳴が轟いた。わたしの名前を呼ぶその声は日付が変わる前にわたしのベッドの中で何度も聞いた声だった。
☆
大きな手に、ずっと自分の手首を強く掴まれている。
二人でわたしの住むアパートの階段を登っていた。
ここまで運転してくれた坊主の男にプロシュートが手にしていた書類と金を渡しているのをみた。車を降りる時、ルームランプの下で坊主の男がわたしを見て笑い目を細めたときに、ぞっとして喉がつまり息ができなかった。
あのホテルの部屋を出る時に、床に転がっているのはたったいま老衰したかのような老人だった。さっきまでわたしとホテルのベッドルームにいた男は50代くらいだったのに、その男と同じ服を着て、同じ顔をしていた。
「鍵は」
そう言われてハッとして、濡れた小さなバッグから鍵を出す。
気がつけば自分の暮らす部屋の前にいた。彼が扉の鍵穴に鍵を差し込み回す。
プロシュートが先に部屋に入った。引っ張られて後に続き、彼が扉と鍵を閉めた。
部屋の奥に進む彼を見ながら呆然としてしまい、玄関から動けなかった。ドレスの上に羽織っている彼のジャケットを強く握る。ジャケットも、髪も、大雨のせいでびしょ濡れだ。
濡れたシャツを脱いだプロシュートはわたしの部屋の冷蔵庫を開けて勝手にペリエを飲んでる。現実味がない。しかしただの夢にしては胸がいたい。
「苦しくないように殺してくれる?」
尋ねると、振り返った彼が眉を顰める。
わたしにとっては精一杯の願いだったけど、彼の機嫌を損ねたらしい。プロシュートは大きくため息をついて呆れ顔で話す。
「あのなぁ。殺されると思ってるならノコノコついてきて大人しく鍵開けてんじゃあねぇよ。」
「……あなたが連れてきたんじゃない」
「逃げるそぶりも見せなかっただろうが」
子供に言い聞かせるみたいに言われた。
そう聞かれても全然わからない。わたしを生かしておく理由はないはずだ。
この男はきっとこういうことを仕事にしているのだから、わたしはそれを目撃してしまったことになる。
「あのジジイとはどんな関係だ。レイプされてたのか?」
「違う。自分で行ったの。呼ばれたら行って、好きにさせてお金をもらってる」
「合意の上でそんな傷だらけになってるっつうのか」
「……ああいう人たちの趣味って終わってるから、こうなることもある。もうわかるでしょ、わたしもあいつらと同類なの。薬やって酷いことされてそれで良いって思ってるの」
「……どうかしてるなオメェも俺も」
お互いの素性がそんなものだとは全く知らなかった。特に互いを深く知ることもなく関係を持ち、上辺だけで短い時間を過ごすことを目的としていた。
「なぜ俺が車で坊主の男に金を渡したと思ってる。
「わ、わからない」
「ナマエ、あんたを殺したくねぇんだよ。口止めだ。よりによって一番面倒なやつとペアの日に……」
イライラした様子でキッチンの換気扇の下、プロシュートはタバコに火をつけた。
「何が欲しいんだてめぇは。こんな古くせぇアパートに住みながら。目的は金じゃあねぇだろ」
尋ねられてもわからない。何が欲しいんだろう自分は。
でもわたしは確かに何かを求めて胡散臭いパーティにいくつも潜り込んで、くだらない夜の人脈を作り、あの顧客たちを見つけたのだ。
興奮した男に殴られたり、首を絞められることなんてしょっちゅうだった。こっちもハイになってるから気にならない。ただ全て終わった後、正気で目を覚ました時にいつも死にたくなる。
ここに何があるんだろう。なにもないじゃあないか。
プロシュートは答えられないわたしをじっと見つめていた。
「……もう夜明けだ。寝るとしようぜ」
頷くと、キッチンから歩み寄ってきた彼の手が頭に乗せられる。大雨の中の、水で薄めたぼやけた太陽が作る、ほの暗い夜明けだった。
☆
目を覚まして、携帯電話に手を伸ばそうと思ったができなかった。サイドテーブルの方に男が眠っていたからだ。まさか自分が起きてからもプロシュートがまだベッドにいるだなんて思わなかった。彼は上半身裸のまま、わたしの毛布の下にいる。
まだ雨が降っている。わたしは何時間眠っていたんだろうか。窓の外は眠る時と同じくらい薄暗くて判然としない。
起き上がって隣を見下ろすと彼はまだ眠っていた。考えてみれば眠っているプロシュートを初めて見た。静かに寝息を立てて、彼は深い眠りの中にいる。わたしがさっき腕をぶつけても起きなかったんだからよっぽどだ。
今朝帰ってきてからも浴びたけど、またシャワーを浴びることにした。雨で冷えて寒かったから湯船にも浸かって、それから戻ってもプロシュートは眠ったままだった。
「お腹すいたなー……」
飲み物しか入ってない冷蔵庫の中をしゃがんで見つめる。冷たい空気が目を覚ましてくれるようだ。
飲み物を取ろうと手を伸ばすと、自分の腕のアザに気がついた。いつも洋服では隠してはいるものの、あまり気にしていなかったそれが、今はとても汚れたものに見えた。
早く消えれば良いのに。消えるまで、今自分のベッドで眠る男にこれを見せたくなかった。プロシュートとは一時的な関係だと何も期待をしていなかったし、彼だってわたしのアザを見ることがあっても特に気にしていなかったのに。
顔が熱くなり、じわりと滲んだ涙が視界を滲ませた。自分で好きにやっていたくせに、それをあの人に見られたことが辛かった。どうしてこんなに矛盾してるんだろう。
すぐに腕で溢れた涙をぬぐい、こんな薄着ではなくきちんと服を着ようと思い立ち上がる。
あっと声を漏らして後ろに立ってる男を見上げる。驚いて肩を揺らしてしまった。
眠たそうな顔が見えたが、すぐに見えなくなった。近づいてきた彼がいきなり抱きしめてきたからだ。強い力でぎゅうとされ動けなかった。さっきの涙がまだ残ってたみたいで彼の肩を濡らした。
少し彼の腕の力が緩んだかと思ったら肩を掴まれて体が離れ、じっと見つめられる。
よく見るとプロシュートの体にもいくつも傷跡があった。昨日の夜は気が付かなかった。
彼が何か言った時に大きな雷が鳴って聞こえないまま、部屋が停電になった。何も見えない。彼と触れてるところの熱だけがわかる。
顎を突然掴まれた。ぬっと暗闇の中でプロシュートの顔が近づいて唇が触れる。心地よいキスだった。
いつも動物みたいなセックスを盛り上げるためだけの性急なキスをしていた気がする。そう思うのは、今彼としているそれがとても穏やかなものだったから。
薄暗い部屋の中うっとりとした気分で、彼と長いキスをした。
外は風が強いみたいで、雨が窓に叩きつけられる音が大きく聞こえる。でもそんなのも気にならなかった。
☆
いいかとか、大丈夫かとか、何度も尋ねられた。全てに肯定して答えて、ゆっくりと事が行われているのにこちらはいっぱいいっぱいだった。
いつもなら自分からも積極的に彼に対して行っていることもできなくなってしまっている。そしていつもの自分だったらこんなことで良いのだろうかと、自分は相手を楽しませられていないのではと不安に思っていたことだろう。今はそういう風には思わなかった。
入ってくる異物感に首をのけぞらせた。痛くないけど息苦しいけど、それが気持ちいい。
こんなにスローに進めるなんて彼らしくない。いや、考えてみれば彼らしさなんてわたしは知らないのだ。
痛いかときかれて首をふる。
「おまえにそんなこと聞くなんてな」
彼の言う通りだ。いつも乱暴なセックスを望んでいたし、彼がそれに応えてくれるから好きだった。何も知らないお互いを粗雑に扱えて、それが楽でよかった。まさかこんなに自分を曝け出すことになるなんて。
でも、まだわたしはこの人のことを知らない。ただこの人がどういう社会に身を置いているかってことしかわかっていない。
考えたこともなかった。彼はどんな音楽を聴くんだろう。どんな天気が好きなんだろう。本を読んだりもするのだろうか。いつも何を食べて、どこでどんなふうに暮らしてて、恋人はいるんだろうか。彼はどんな女の子を好きになるんだろうか。
わたしはこれからも彼に会えるだろうか。ずっと一緒にいるなんてこと、もしかしたら、もしかすると、できるだろうか?
彼について考えれば考えるほどに際限なく欲望が膨らんでいく。彼を知りたい。彼の全部を見て、ぺろりと平らげてしまいたい。
☆
ベッドの中であれから喋らなかった。もう眠気もなかったけど、性行為後のけだるい体で彼とぴったりくっついてベッドの中にいた。
「お腹すいた」
ぽつりとそう言うとプロシュートが笑って自分も同じだと言った。彼が笑った時にその振動がわたしの体にも伝わった。
服を着て簡単に髪をとかして、二人で通りまで出るとタクシーを捕まえた。わたしのお気に入りのリストランテに行くのだ。
素敵なテラス席がある店で、夜に行くのが好きだった。テラスには電球がいくつもぶら下げられてて、薄暗いオレンジの灯りの中にいると落ち着く気がした。
「化粧してねえとガキみてぇだな」
「残念ながら成人してる。ねえデザート食べたい。大きいから半分食べてくれる?」
「一人で食えよ」
もうたらふく食べてお腹いっぱいだった。もうすぐこんな時間と終わりかなと思うと寂しい。
この人ともっと一緒にいたいと思うだなんて。
「次、また会える?」
彼に尋ねるとびっくりしたような顔を向けられるのでこちらまで焦ってしまう。
「え、どうしたの」
「いや……。2日後にでも会おう」
「うん」
「お前生まれはどこだよ」
「生まれ?いきなりなに」
「いいから教えろよ。俺も話す」
それからずっと、お店が閉まるまでお酒を飲みながらお互いの身の上話をした。プロシュート はデザートも半分食べてくれた。テラス席のオレンジの灯りの中でのその時間はゆっくりと流れる。楽しくて、ずっと高揚感と安心感が一緒にあった。
いろんなものをなくしても、また新しく得ていけるのかもしれない。
その後も続く自分の人生の中、その夜を生涯忘れることはなかった。
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