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たかが世界の終わり


暗い廊下はいつもみたいに薄暗く、埃まみれで、蜘蛛の巣が張っていた。チカチカと頭の上できれかかった電球が不快な点滅を続けている。小さな蛾がその周りを飛んでいることが多いが、今日はいなかった。
通り抜けて、扉を開く。いつも全員が集まるのはこの部屋だった。しかしながら、今日この日、その部屋にいるのはナマエ一人だけだった。あとはテーブルの上にマニキュアの瓶がひとつ。

彼女は窓のそばの簡素な椅子に座って眠っていたらしいが、オレが近づくと目を覚まし、ふらりと立ち上がった。最後に会った時から変わらないいつもの気怠げな目つきは、窓に叩きつける雨の音と、ぼんやりとした窓から入る中途半端な薄暗い光によく似合っていた。

「おかえりホルマジオ」
「ナマエ……」

思わず名前を呼んだが、彼女はなんてことなさそうだった。オレがどれだけ驚いても、どれほどその身に触れたいと思っていても、そんなの関係ないと言わんばかりに、当たり前にそこにいた。一番のお気に入りのワンピースを着て。
ふらりと立ち上がった彼女は窓に寄りかかり、こめかみのあたりをガラスに触れさせながら外を見つめた。その横顔も、小さな肩も指先に塗られた色も、何一つ変わっていなかった。彼女であった。
すぐ間近に彼女を見下ろしてそれを確かめた。そうしていると、また彼女はこちらを見上げる。窓を流れ落ちる水滴の影が彼女の頬に青く映り、涙のようだった。

「あなた煙の匂いがする」
「そうだな」
「血の匂いも」
「まあな」
「疲れてる?」
「どうだろうなぁ。オレはいつも、仕事に後悔はねえぜ」

彼女はほんのりと笑った。一歩歩み寄って、彼女の髪に触れた。頬を親指で撫でてじっとその顔を見つめる。窓の水滴はやはり彼女の頬に映っている。目を閉じて唇を触れさせたとき、突然閃光が室内へ差し込んで、唇を離す頃に巨大な雷鳴がオレたちの中に響き渡るように轟いた。それでももう一度、オレたちは気にする事なく唇を触れさせた。

「ナマエ、寂しかったか?」
「何言ってるの」
「オレはおまえに会いたかった」
「仕事の間くらい我慢しなよ。あなた、わたしよりずっと先輩なのに」
「ああ、だがもうしばらく仕事もねぇ」
「そうだね。……お疲れ様。お疲れ様だね、ホルマジオ」

単純な言葉はさまざまな想いを孕んでいるように思えた。
背中に伸びた手がオレを強く抱きしめた。首に鼻筋を埋めた彼女の髪の香りがどうしようもなく愛おしく思わせる。この香りが好きだ。ずっと、どこにいても、オレは彼女の香りを探してしまうのだが、それは絶対に彼女のいる場所にしかないのだ。同じ香水を纏った別の女じゃあダメだし、自分がその香水をつけたって違う。だからいつだって彼女にこうして、会いたかった。

「ホルマジオ、煙と血の匂いのせいで、あなたの香りがわからない」

彼女も同じようなことを思っていたらしい。
それにどこまでも溢れるほどに満たされたはずなのに、胸奥は鈍く痛んだ。この痛みはこれから先も訪れるものだろうから、受け入れてゆくべきであろう。



座り慣れたソファーに深く腰掛けながらリモコンでチャンネルを切り替えても、テレビ画面に映るのは窓の外と同じように暴力的な砂嵐ばかりであった。時折、見覚えのある人の顔のようなものや景色が映るが、すぐに消えてしまう。時折声も聞こえたが、それも砂嵐の騒音にかき消された。

「電波もダメなんだな」
「嵐のせいだよ。あなたがくるまではもう少し見えた」
「いつまでこの嵐は続くんだ?」
「さあ。全部が、終わるまでかな」

隣に座る彼女の抽象的な言葉に黙って同意して、こめかみに口付けた。

「これより前は天気は良かったのか」
「うん、曇りだったけどね。曇りが続くのってなんだか不気味だねって、ソルベとジェラートと話してた。だからこの方がいいよ」
「なあそういや、あいつらは?」
「2階にいる。今はきっとお取り込み中。近くに行かない方がいいよ、色々聞こえちゃうから」
「おめーよくあいつらとこんな狭い中に居られんな」
「慣れるものだよ。また二人でいられて、幸せそうだしね。時々喧嘩してるけど」

じゃあ、オレたちも同じようにしたって構わねえだろう。
彼女のこめかみにもう一度口付けると、肩を抱いたままに強く引き寄せてオレの方を向かせた。深く口付けて、肩や背中を撫でた。彼女の手はオレの首の後ろを撫で、それをきっかけに緩慢な動作で彼女をソファーに押し倒した。唇を離すと彼女がすぐそばでオレの名を呼んだ。その声が甘えるようで、愛おしげに聞こえたのは気のせいだろうか。

適当な場所に置いたリモコンは床に落ちて行ったが、叩きつける雨風のせいでその音は聞こえなかった。聞こえてくるのは側にいるお互いの吐息や、キスをする音だけだ。



キッチンに行くとそこもいつも通りだった。いっつもどこかび臭いような陰気な場所だ。何か食いもんはあるだろうか。そう考えながら戸棚を漁ってみるとワインがあった。
ラッキーだなと思いながらそれを手にしたまま、冷蔵庫を開ける。誰かの食いかけのチーズのカケラがあった。腹がすいたような気がするのでそれに口をつけようとする。そうしたところで、ひたりと、背中に彼女の手が触れた。

「ねぇホルマジオ。なにも、食べたらダメ」

彼女はそう言った。そう言ってオレの手を掴むとチーズは床に落ちた。ワインの入った瓶は奪われちまう。
振り向いて彼女の顔を見下ろすと、笑ってしまうほどに情けない表情を浮かべていた。眉尻は下がり、瞳はうるみ、その佇まいに覇気はない。こんな調子ではこの嵐の中で溶けて消えてしまうのでは無いだろうか。
だから抱き寄せて、彼女がここにいることを確かめた。その感触や、匂い。体温だけが物足りないが、それはオレの方も変わらないだろう。

「もうオレは何食ったって変わらねえよ」
「……でもまだ、あなたはもしかしたら」

彼女は言いかけて、そこで止めてしまった。どうしようもないような気分がせり上がってくるのを感じながらも、彼女の頭を撫でて話しかける。子供に話しかけるような声が自然と出てきた。

「情けねえこと言うじゃあねぇか。らしくもねぇ。オレは役目を果たしたんだ。それで今おまえといる」

瞳から流れ落ちた涙を初めてみた。ナマエはどうやらオレのことを悲しんでくれているらしかった。こんなふうに素直に態度に示す彼女など、初めてのことだ。
好きだった。ずっと長く、この彼女を特別大切に想っていた。仕事であろうとプライベートであろうと、二人で過ごす時間が好きだった。ナマエの笑顔がオレをどろどろと甘い気分にさせるあの時間。あれは永遠だ。消えることはない。時間が進もうと、止まろうと。終わろうと。

「そんな顔すんなよガッティーナ。おまえと一緒にいさせてくれ。愛してるんだ」

ついぞ言えなかった言葉がすらりと出てきた。
オレはどうにも、誰にも彼にも簡単に使い過ぎていたこの言葉を彼女にだけはうまく使えなかったのだが、しかしそれももう、終わりらしい。
こんなことならこの激しい嵐の中も悪く無いと思えた。なんせ彼女と二人で、もう他に気にすることもなく過ごせるのだ。あとはオレたちは、待つのみだ。長らく待つことになればいい。まだ誰も来なければ良い。きっと奴らならやってくれるだろうよ。彼女もそう信じていたから、オレが来たことをいつまでも歓迎しないのだ。それは彼女らしい考えであった。

しかしながら、雨足も風も強まる一方のようだった。キッチンの窓は騒音を立て、今にも風に破られそうだ。アジト全体がガタガタと揺れていた。世界が終わるような雨が、オレたちを閉じ込めるようにふり続けていた。
せめていつまでも続けば良い。彼女もきっとそう想っている。