融解願望
拳の関節と鼻からダラダラと血を流してなまえが帰ってきたのは、間も無く日が登る朝方のことだった。
「パンツの中に手突っ込まれたから殴った」
「へ!?」
「殴り返されて、むかついたから顎をパンチした」
事情を尋ねると、なまえは淡々とそう答えた。掴みどころのない表情で、怒ってるわけでも怖がっているわけでもないように見えた。彼女はいつもそうだったから、おれはこの女の子のことなんて一生理解できないんじゃあないかと、いつもそう思わされた。
そんな風に今日も考えながら彼女の傷に触れようとすると、伸ばした手を振り解かれる。彼女は冷たくおれに言い放った。
「こんなの治さないでいいよ。そのうち血も止まる」
その、突き放すような言葉にぞわりとした。背中を栗立たせたその感情は怒りなのか恐怖なのか、はたまた愛情から来るものなのか、一体どれであろうか。
とにかくこの子はいつもこうしてどんな時も、おれの感情をぐちゃぐちゃの、訳の分からないものにしてくれる。
「仗助、どうしてうちにいるの?」
「おまえが帰ってこねーからだろ」
「……変なこと言わないでよ。この家は、だれも住んでないのと同じなんだよ」
目を細めて彼女が笑うと、部屋の冷たく白い灯りがそれを照らした。冷たさを覚えるような完璧な笑顔を、彼女は他人に惜しみなく振る舞う。
広い敷地に立つ立派な一軒家。昔から彼女はそこにいつも一人でいた。広い書斎に閉じこもり、窓際で丸まって何かの本を読んだり、庭の木の下でこれまた本を読んだりして過ごしていた。
だれも住んでいないと言うのは間違いではなかった。両親の帰らない広い家、数日に一度来るハウスクリーニングのおかげで家の中はホテルのように常に完璧に保たれ、そこに生活感はない。そして彼女は夜通しどこかで遊び回り、この家に帰らない日ばかりであった。
子どもの頃はよく2人で、でかいテレビ画面でゲームをした。その頃は彼女はよく笑った。今ほど彼女の両親が留守がちになることもなかった気がする。もう、最近じゃああの人たちの顔も思い出せないが。
ぶらりと垂れ下がる彼女の手をとり強く握った。そのせいで彼女が痛い、と呟いた時には、関節の上の皮膚がめくれて血が流れ出ていたそこはきれいに治っていた。
「……仗助って人の言うことを聞かないよね」
「どっちがだよ」
「あたしにもそんな力があったら、そしたら仗助の気持ちがもっとわかるかも」
笑顔も消えた静かな表情でそんなことを言う彼女の頭をぐちゃぐちゃになでた。彼女はびっくりしたのか目を閉じて声をあげたから、その隙に俵のように乱暴に担ぎ上げてやった。
「なに!なにしてるの!?」
「鼻血拭いてやるってんだよ」
「やだおろして!自分でする!」
バタバタと動く足を見た。爪先にははっきりとした明るい色のマニキュアが塗られている。この脚を自由に触ることができる男が、この街のどこかにいるのだろうか。彼女の痛みに触れて、癒せる男がいて、彼女はその男の家に入り浸っているから帰ってこないのだろうか。
そうだったら、どんなに悔しいか。どんなに嬉しいか。おれは好きな女に、ただ穏やかに安らかに日々を過ごして欲しかったし、いつだっておれだけのもんにしてしまいたかった。その二つの気持ちが矛盾しなければ一番良いのにと、いつも思った。
この西洋風の造りの家にはバスルームがいくつあるんだろうか。寝室の数と同じだけはあるのだろう。バスルームのダブルボウルの洗面台に担ぎ上げていた彼女を座らせ、拝借した肌触りの良い真っ白なタオルを濡らしてきめ細やかな肌に着く赤黒い血液を拭いた。
「ねぇやだ、子供じゃあないんだから」
彼女の文句を無視して、鼻や頬にまでついた血を拭った。しかし冷えたタオルは途中で奪われ、彼女は自分でそれを鼻の上に当てながら、冷たくおれを見上げた。
「仗助……。あたしみたいなのに優しくしても、意味なんてないよ」
まただ。その言葉がおれをぞわりと、全身を嫌な感覚にさせる。彼女は真顔のおれと見つめあったままタオルを奪うと自分で顔を拭き終わり、出しっぱなしの水が流れ続けるボウルの中に汚れたそれを捨てるように放った。
なまえの、学校で見るのとは違う華やかに彩られたまぶたや頬や唇も、ボーイッシュな普段着とは程遠い背中や手足の肌が晒された服装をしていることも、どれもおれの感情をぐちゃぐちゃにかき混ぜて、やっぱりおれをどうしようもなく衝動的な気分にさせた。
張り詰めた空気のバスルームで睨み合うおれたちは、ただの幼なじみである。
「仗助。出て行って」
「行かねえよ」
「わたし眠いの。疲れたの。お風呂に入って、部屋で眠りたいの」
「眠れもしないくせに?」
「……」
「どうせ書斎の隅っこで、今みたいな顔して朝日を恨むんだろう」
彼女が眉を寄せ、目を細めた。いよいよおれに怒りを覚えたようだ。そりゃあそうだろう。こんな他人のおれに勝手に家に侵入されて、勝手に自分の帰りを待たれ、勝手なことを言われて勝手なことをされる。
怒れる彼女は綺麗だった。だから思わず、逃げようとする彼女を鏡に押しつけてキスをした。
彼女の寝室に入った頃、抱き上げられてもがいていた彼女の爪が首に触れて浅く引っ掻き、ほんの小さな鋭い痛みが走った。その痛みは反射的に痛いと呟くこともないような、かわいいものであった。
しかしなまえは驚いたのか、小さく声を漏らした彼女はあわてて手を引っ込めた。それまで必死で暴れていたのも途端に大人しくなり、容易にベッドへ下ろすことができた。
彼女の肩を掴んで押し倒してやろうとしていると言うのに、彼女はおれの首に手を伸ばして手のひらでそっと触れてきた。ミミズ腫れかなんかになっているんだろうか。
「痛かった?」
眉を八の字にして、今にも泣き出しそうに瞳を潤ませ、彼女はひどく悲痛な顔をしていた。あの冷たくおれを見つめた瞳とはえらく違って見える。
「痛くないよ」
「うそだ、ごめんね、ごめんなさい。……あたし、治せないのに……ごめんなさい」
こんなの気にもならねぇってのに、彼女はさめざめと泣き出した。だからベッドに乗り上げかけているおれはぎょっとしてそんな様子をただ見下ろしていた。こんな傷は傷にも入らねえというのに。
手当をしよう、と青ざめた彼女が抜け出そうとするのを捕まえて、腕に収めるとまたキスをした。彼女はそれに流れるように応じ、おれの背中に腕を伸ばしてきた。彼女がおれに口付けた。
お互い経験がないわけでもないというのに、少しのぎこちなさを残しながら、おれたち2人は初めて性的な行為に及んだ。
彼女の肌に触れているのが嘘みたいだった。吸い付くように柔らかで滑らかな全身に、余すことなく触れたいと思った。彼女は嫌だと言ったり抵抗することもなく、甘ったるい泣きそうな声を出してはおれの名前を、ここにいることを確かめるように呼んだ。
彼女が見せる表情はどれもきれいで、それは怒りや悲しみや苦痛、そして快楽によるものでも変わらず美しかった。そんな変化を見ることができる人間はどれほどいるんだろうか、この慢性的な孤独を抱えた彼女に。
学校にいても彼女は一人だった。何人も友達がいるくせに気がつくといつもどこかへ消えてしまう。尋ねて回ってみても、だれもそういう時の彼女の居場所を知らない。
押し入った狭い中にお互いに息を呑んで、おれたちは深くまで繋がった。そのまま動かずにじっとしていた。彼女は頬を蒸気させ、瞳を潤ませて浅く呼吸をしている。
「仗助、くるしい」
「ごめん」
「くるしい……。あなたといると、くるしいの、あたし……」
彼女は泣いていた。そんなことを言うくせにおれの唇にキスをして、離れようとはしなかった。彼女の身体は中も外も、肩に触れる涙も全てが熱かった。触れてつながったところから溶けて、おれはどろどろになってしまうような気がした。そうなりたいと思った。
この子が好きだ。おれもきっと同じくらいに、彼女といると苦しかったから。
「仗助の自分の傷に鈍感なところ、きらい」
「そーなの?」
「でもそこが好き」
小さな声で矛盾したことを、寝ぼけた声で言った。
二階の、朝日がよく差し込む彼女の寝室の大きなベッドの上、今日の彼女が朝日を睨むことはなかった。カーテンの隙間から入る明るく暖かな光の中で、彼女はどろりと溶けるように眠った。声をかけても、紙に触れたり額にキスをしても反応がないほどに深く、彼女は眠っていた。
向かう方向も定かではない、このおれたちの関係はさらに訳のわからないものになってしまった。
そう考えてみても不毛なので、首に彼女が貼り付けてくれた絆創膏を撫でて、彼女を抱き直すと目を閉じた。