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されどマイ・プライベート・アイダホ


夢を見た。わたしは何かの小さな獣だった。
オレンジの屋根を伝って歩いて、窓を外からガリガリと爪で引っ掻くと窓が開いた。窓が空いたせいで、外の風が流れ込み、女の子の髪を揺らした。女の子の顔は見えなかったけれど、少し涙の匂いがした気がする。気のせいかもしれない。

わたしは女の子に抱いてもらって、会いたい人の元へ運ばれる。女の子の腕の中は気持ちよかった。そして、会いたかった人のそばに連れて来てもらうと、女の子腕の中からその人の腕の中に飛び移った。それからわたしは目を閉じた。安心したから。



押し殺しきれない気持ちというのもあるのだと初めて知ったのはいつだったのだろう。それまで、わたしはずっと気持ちというのはコントロールが効くものだと思っていた。自分が我慢して、押し殺してしまえばいつか消えるのだと、そう思っていた。
今日、仕事で膝を軽く怪我した。どうでもいいような傷だったはず。

「なぁおい。何日食ってない」
「……なに?」
「オメーまたどうせ飯食ってねえだろ」

数日がけの仕事を終えて帰りがけ。車から降りようとしたら運転席の男に腕を掴まれた。引っ張り寄せられて、すぐそばに彼の顔がある。この男は奇妙な目でわたしを見る。何か見通すように、わたしを透かして身のうちまでをのぞかれているような、いつもそんな気さえした。
強い力と彼の態度にわたしは動けなかったので、瞬きをせずに彼のそんな瞳を見つめるしかなかった。

「仕事が終わったからちゃんと食べるわ」
「んなこと言って明日とかになんだろ。今すぐ食えよ。このままどっか寄ってけば済む話だ」
「……人がたくさんいるところで食べるの、嫌なの」
「じゃーオレんち来い」

腕を離されたかと思うと身を寄せた彼が腕を伸ばしてわたしが開ける途中だったドアを閉めた。ホルマジオの匂いがする。それからその腕は戻りがてらに頭をぐしゃぐしゃと撫でるから、目を閉じてそれに応じた。
彼の家に行くらしい。わたし、はやく一人になりたいのに、この人の言うことにはどうにも力があった。強制力じゃあない。引き寄せるような力。

鍵をドアの横の扉にガチャリと置く音。わたしがドアを閉める音。ホルマジオは適当にしてろって言ってキッチンに向かったらしい。ぼんやりその場に立っていたけれど、どこに向かえばいいのかもわからなかったので彼の寝室に行った。男の家になんて、寝室に入るために来ることしかなかった。寝室を見て、それから、彼を追ってキッチンへ行った。

あんまり新しくないアパートの一室だ。ここで今ホルマジオは暮らしているらしい。わたしたちはみんなコロコロと住まいを変えるから、眠るところさえあればいいような簡素な場所になりがちだ。同じように、この人もあまり物を持つ趣味の人ではないようだ。キッチンにもたいして物はなかった。だけどうちの触ったこともないようなキッチンとは、その様子はかなり違う。

「材料も大してねえけど、おまえなんでも食うだろ?」

冷蔵庫を覗き込むように前にしゃがむホルマジオの、冷蔵庫の中の明かりに照らされた顔を見ながら、隣にぼんやりと立っているわたしは頷いた。

ヒマならパスタを茹でろと言われたのでそうした。どのくらい茹でるのが好きなのか彼に尋ねたら、わたしの好きにしていいと言う。
すぐにキッチンにはバジルとチーズの匂いが漂い始めた。ホルマジオは緑のソースを作ってる。わたしは今彼が作ろうとしているであろうペスト・ジェノヴェーゼが、料理の中でいちばん好きだった。こんなふうに何も具が入ってないやつ。彼はそんなこと知らないだろうけれど。
いい匂いだ。ひどくお腹が空いていたのだと、わたしはこうして彼の家でキッチンに立ちパスタの鍋と隣の男をぼんやりと視線を動かして交互に見ながら、ようやく気がついた。

「わかってると思うけどよぉ、特別美味くねえからな」

そう言うホルマジオは悪い顔して笑った。

少し傾いてガタガタしてるテーブルで向かい合って、パスタを食べた。おいしかった。ゆっくりと、味わって、少しずつ口に運んだ。早々に食べ終えたホルマジオはそんなわたしを頬杖をつきながら眺めて、少し笑っていた。この人の笑顔は全部悪人面に見えるけれど、これはどういう種類の笑顔なのだろうか。
不思議だ。人前で食事をするのは苦手なのに、今はまるで一人で食べてるとの変わりなかった。むしろいつもより食が進んでいる。このシンプルな味のソースがそんなに美味しいってことなんだろうか。

お皿を空にしてお腹がいっぱいになった頃、目の前から伸びてきた手がわたしの頭を撫でる。また目を閉じてそれに応じて、なんだか少し気恥ずかしかったから、グラスに注いでもらってあったワインを飲もうとした。お酒は好きだ。だけどグラスのふちに唇を触れようとしたところで離してしまった。今日はやめておこうと、ふとそう思ったのだ。
視線を上げて彼を見つめる。ホルマジオもじっとわたしを見ていた。

「まだここにいてもいい?」

ドキドキとしながら尋ねた。声が震えそうな気がした。
わたしの精一杯の質問に、ホルマジオは笑ったりしなかった。あなたの瞳はセクシーで魅力的だと、わたしがそんなふうに言える女だったらいいのにと、密かに思った。

「あたり前だろ。オレが連れて来たんだからよ」
「そう。……ありがとう」
「なにがそんなに不安だ?」
「……なに?」
「オメー初めて会ったときから、ずっと捨てられた猫みてぇだよ」

彼はきっとわたしのこと、なんでもわかっているのだ。それが嬉しくもあったし怖くもあった。



寝室を使っていいと言われた。ホルマジオはリビングルームのソファーで眠るらしい。彼に借りた服を着て、彼の匂いがするベッドの中で毛布にくるまっていた。半分くらい減っているワインのボトルや新聞、タバコの吸い殻が入った灰皿、そういうもの以外になんにもない部屋だった。ホルマジオは一人の時に何をするんだろう。

眠らずにぼんやりとそう考えていたところ、窓からカリカリと奇妙な音が聞こえて来て体を起こす。色あせた薄い布のカーテンを開けてみると、赤毛の猫が窓の向こうにいた。鍵を開けてドアを開いてみたら、開き切る前に少しの自分が通れるだけの隙間から猫はするりと寝室に入って来た。慣れている調子だ。猫はわたしの膝の上に降り立つとこちらを見上げてニャーと一声鳴き、それからベッドに降りた。きょろきょろと辺りを見回していた。ああ、この部屋の一時的な主を探しているのだ。

体に触れても猫は怒ったりしなかった。柔らかなこの毛並みはわたしの髪みたいな色をしている。わたしも猫っ毛だし、なんだかとても親近感を覚えた。
ベッドから立ち上がり、おいでとシーツの上の猫に言った。猫は迷わずピョンとわたしの腕の中に来て、当たり前のように丸く収まる。運べってことなのだろう。お姫様を扱うみたいに丁重に抱いて、わたしは寝室を出た。オスかメスかもわからないけれど。

リビングルームは真っ暗だった。だけど眠らずにソファーの肘置きに頭を置いて寝そべっているホルマジオはこちらを見る。それまでは天井を見つめていたらしい。
猫はわたしの腕からピョンと降り、音もなくリビングルームを歩くと、壁の前にあるソファーにのぼり、彼の体にのぼり、ホルマジオの胸の上で丸くなった。

「連れて来てくれたのか」
「……」
「最近来るんだこいつ。かわいいよなァ」

ホルマジオの手が猫の背中を撫でた。やさしく、寝かしつけるように。だけどどこか猫を逃さないようにしてるような手つきにも見えた。
この猫は、この人がきっと無意識でやっているこれに夢中なのだ。

「眠れねぇのか?」

視線だけ上げて彼がそう言う。わたしは頷き、開いたままのドアの枠に肩をもたれた。

「おまえはしゃべんねぇ奴だ」
「……話すのが苦手」
「たまにはもっと深いところを話してみろよ」
「深いところ?」
「おまえは自分の腹ん中を誰かに見せたりしねぇだろ」

あなただってそうじゃあないかと思った。それでも猫を撫でる。寄り付くものを引きつけて離さない。
わたしの中にズカズカと入ってくる。自分でも知らないうちにきっとそうしてる。そして、わたしもそれを悦んでしまう。俯き、少し黙ってから口を開いた。

「だれかと、深いところで話したことがあるの?」
「どうだろな。だがおまえには必要だ」
「無理だよ」
「どうして」
「だって」

自分の声の調子がどうにも甘えたものになってしまったことを恥じるものの、それを止められはしなかった。わたしは今この人に女を利用しているのだとわかりながらも。
彼の顔を見ることができなかった。

「あなたが好き。……あなたにキスしたいって思う。でもあなたは、ちがうでしょう」

俯いたままそういった。ほっぺたがドア枠に触れると冷たかった。この部屋も廊下も寒い。寒いのは嫌いだ。外に出ると寒いの。だから自分の部屋の中で、誰も入れずにいたいの。

ホルマジオに借りた服から伸びる自分の膝を見つめる。仕事の時についた傷があった。傷の周りは痣になっていて少し前には青くなっていたけれど、今はひどい紫色だった。気がついたら後には戻れない。バイキンのようなもので侵されて、どんどん膿んだり、鬱血してゆく。治ったとしても、元通りの皮膚の形にはきっと戻らないのだと、わたしにはわかった。

びっくりしたかな。不快な気持ちになるだろうか。いつまでも彼の前で顔をあげられなかった。わたしは自分の本心がどこにあるのか、いつもよくわからない。心からの言葉だとわかるものを漸く見つけても、ずっとだれにも話せなかった。
だから今すごくわたしはドキドキしている。なんで今になってこんなことをするかって、さっさと突き離されて、彼にわたしを遠ざけて欲しかったから。諦めを与えて欲しかったから。

「……しょうがねえなあ」

ホルマジオは黙っていたけれど、ため息をついてそう言った。彼の気持ちはわたしには計り知れない。だけど、彼がわたし向けるあまり小さくはない気持ちの種類が、わたしが欲しいものでないものなのだろうと、ずっと前から気がついていた。

「ほら、来いよ。こっちで眠ろう」

呆れるような、甘やかすような声で彼がそう言った。無意識に顔を上げて彼をみる。誘われるように一歩足を踏み出そうとして思いとどまる。そんなわたしに、やはり彼は甘く笑った。

「安心しろって、なんにもしねぇよ。おいで」

寝そべる彼は両手を広げた。その中に猫もいる。なんだか可笑しいな。
わたしはベッドに歩み寄り膝を乗せ、ホルマジオの顔を見つめた。こちらを見上げる彼は穏やかな目をしていたから、わたしはほっとして、彼の腕のなかにするりと入り込み、強く抱きしめてもらって目を閉じた。

「おまえ抱き心地悪いぜ。もう少し肉つけろよ」
「太りたくない。綺麗に洋服着たい」
「そうだなぁ。まあ、他の男に拐われちまうよりは、そのままオレらと居たらいいと思うぜ」

そんなことを言われても、この人といたらきっとわたしはどんどんご飯を食べさせられて胸やお尻にもお肉がついていってしまうのだ。ホルマジオはとことんわたしに甘かった。優しいのではなく、甘いのだ。わたしを女として熱烈に好きになったりはしない。背中を撫でる手に、性的なものが少しも無いことが、わたしに安心と不安をいっしょに与える。しかし、諦めはくれなかった。
おでこにキスをもらった。それも同じだった。

「キスしていい?」
「ダメだっつうの」
「どうして?」
「エロいのされたらたまんねぇだろ?オレを男にさせてくれるなよ」

あなたがわたしの中に入り込んで、わたしを女にしてよって思った。
してしまおうかな。色っぽいキスをして、いやらしく彼の身体に触れてその気にさせてしまおうか。

……だけど、こんな風にやさしくただだきしめて、ただ背中を撫でてくれる男というのが、今までの人生で、そしてこれからの人生で、どれだけ居ようか。
だからわたしは彼に、もう眠ることを告げることにした。

「……おやすみ。明日、朝ごはんを作ってね」
「いいよ。おやすみ」
「好きだよ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」

隙間なく抱き合って、溶け合うように眠り、きみと同じ夢を見たい。それが悪いものでも優しいものでも、心の底からそう思う。わたしは誰かに、こんな風に甘い憂鬱を覚えるのは初めてだった。