×
BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
- ナノ -
尋ね人の郊野


「ほっぺたにキスしてもいい?」
「いいよ」
「怒ったりしない?」
「しないよ」

あの頃そんなことを言われたことがある。かわいいなって思ってわたしのほっぺたにキスをした女の子の頭を撫でた。わたしたちは子供だった。

あの子はどこへ消えただろう。近所に住んでた女の子。たまに右目に痣を作って、うちの裏庭に隠れていた子。庭のローゼピカンティのうしろにブロンドの髪が見えたら、あの子がいるってことだった。わたしはいつも、学校から帰ってくるとその子がいないか裏庭に見に行った。

その子は気持ちの浮き沈みが少なく、時々しか笑ったりしなかった。お腹がすいたというから、キッチンで隠れて母親の作った大きなクッキーを二人で齧ったりしたものだ。いろんな食べ物を袋に入れて、彼女が帰るときにいつも持たせた。彼女はどうしていつもお腹がすいているのか、どうしていつも身体中に痣があるのか、わたしに教えてくれたことはなかった。
手を繋いでトスカーナの田舎町を歩いて、日が暮れるまでずっと一緒にいた。

しかし、小学校の高学年になった朝、彼女の家はある日突然誰もいなくなってしまった。うちの母親はきっと夜逃げだと、ヒステリー気味に言っていた。家の中の金品はなくなっていたことから、小さな町の人たちもそう言った。
母はあの家の子は変わっていただの、しつけが悪くて挨拶もできない子だっただの、好き勝手に話していた。それまではあの子の母親はすごくいい母親だって言ってたのに。わたしがあの子と仲良しだったことなんて、少しも知らなかったくせに。
母はわたしのしつけが完璧だときっと今も思ってる。しつけなんて、人間に使う言葉だろうか。犬みたいだ。

それから何年もわたしはその狭い退屈な町の中で暮らしたけれど、大学に進学するために地元を離れ、都会に引っ越した。初めて暮らす寮ではルームメイトの子とも仲良くなって、勉強にパーティーにと、都会の暮らしをなんとなく楽しんでいた。なんとなくだった。トスカーナでも、ここに来てからも、どこにいても、わたしはいつもその土地に自分が立っている感覚がとても薄かった。
いつも眠る前に、家の裏庭に現れてわたしを連れ出してくれる、亡霊みたいな女の子を思い出した。ローゼピカンティを見た時にはあの子の美しいブロンドを探した。



恋人とキスをして別れて、寮への帰り道を歩いていた。夜の風が酒で熱った身体に心地よかった。おろしたてのワンピースの短い裾が風に揺れて、わたしを余計にぼうっとさせる。
今日はあの人とセックスをするはずだった。だけど何だかわたしが上の空でいることを指摘され、今日はやめようと言われた。彼とは大学が同じ学部で、ルームメイトを介して知り合った。優しい人だ。自分の欲を最優先にしたりしない。わたしを大切にして、ずっと一緒に居たいのだと言った。みんな、こんなにいい人はいないと言う。そういうのは少し、退屈に思えた。

寮のエントランスを通ると顔見知りの子たちがテーブルでカードの賭け事をしていた。あんたもどうかと誘われたけれど、そんな気分じゃないのでおやすみって笑って手を振った。
ルームメイトと一緒に、あの子達からハッパを買ったことがある。恋人にも寮の子達にも内緒だけれど、ハイになったわたしとルームメイトはベッドの上でキスをして、それ以上のこともした。わたしからしたのだ。ルームメイトの美しく長いブロンドの髪に思い出すことがあったから。あの髪は、染めたものだけれど。

階段を登って自分の部屋に着いた。彼女は眠っているだろうか。ただいまと言いながらドアを開けた。
中は灯りがつかずに暗かった。だけど窓は空いて、レースのカーテンが揺れている。部屋には入ると奥の両サイドにベッドがあって、右がわたしで左がルームメイトのものだ。彼女のベッドに座る影と、揺れるブロンドが見えた。

「ねえ、どうして灯りを消してるの?」

入り口のスイッチを押して、いつも通り自分のベッドに荷物を置こうとした。だけど、いざ彼女のベッドの方を見て戦慄する。長いブロンドは彼女のものではなかった。そこには見知らぬ男がいて、ベッドからゆっくりと立ち上がるところであった。慄くわたしは振り向き、震える手でドアノブを掴み、自分で閉めてしまった扉を開けようとした。だけどうまくいかない。そして気がつくと、すぐ後ろに男がいた。

「誰なの、警備員は……!あなた、どうやってここに」
「ずいぶん見た目が変わったな。女ってのはみんなそうなのか?」
「だ、誰か!む、」

わけのわからないことを口走りながら、男は声を出せぬようにわたしの口元をグローブに包まれた大きな手で覆った。反対の手で掴まれた手を引っ張られて、男の方を振り返ることになる。細身の、静かな目つきをしたブロンドの男が目の前にいた。男は変わった半透明のマスクをしていて、右目は髪のせいもあってよく見えない。心臓がうるさい、こんなのはいつぶりだろうか。この人は誰?

「怖いのか?安心してくれ、別にオレはあんたを殺したりしない」

気がついたようにそう言って、ドアを背にするわたしに話しかける。浅く呼吸を繰り返し、どうすればここから逃れられるのかを頭が巡る。出せるうちに大声を出しておくべきだった。今そんなことをして、この男を刺激するのは恐ろしかった。今は耐えて、隙を見て逃げよう。頭の中はルームメイトと自分の安否でいっぱいだった。

「あの子は……」
「あの子?ああ、あのブロンド。その話はまた後だ。オレはあんたに会いに来たんだからな」
「……」
「どうしたんだ。よく喋る子だったじゃあねえか、ナマエ」

名前を呼ばれ、わたしを知っているのかとまたゾッとした。ストーカーか何かだろうか。身に覚えはなかった。

「またあんたの頬にキスをさせてくれよ。怒ったりしないって、言ってくれ」

しかしながらその言葉に、時が止まったような気がした。
突然、わたしの中の恐怖が頭から足の方へと消え、無意識に彼の顔に手を伸ばした。彼の目の周りや耳を覆う半透明のマスクに触れ、それをゆっくりと下に下ろす。彼はそれを嫌がったり、怒ったりはしなかった。
じっと彼の顔を観察した。よくみると美しく整ったその顔にはどこか見覚えがあった。髪は左右非対称に切り揃えられて痛んでいるけれど、わたしが知るのはもっと艶やかで、夢見るように長くふわふわとしていたけれど、その生まれつきの髪をわたしは見たことはある。しかしながら、彼の右目にもう痣はなかった。それでもやっぱり、ローゼピカンティのあの子であった。

「……うそ、幽霊だわ」
「やあ、忘れてなかったんだな」
「男の子だったの?」
「もうそろそろ男の子って年でもねぇけど」

毎晩のように脳裏に浮かぶ女の子は、男の子になってわたしの目の前にあらわれた。さっきまでの恐怖も、居場所の知れぬルームメイトも、恋人との未遂で終わったセックスも、もうわたしの頭にはなかった。
わたしはずっと、何かを探していて、それが見つかるまではずっと満たされない、つまらない人間なのだと思っていた。

頬にキスをされたから手を伸ばして彼の頭を撫でた。ああ昔もこうした。あの頃互いの身体の大きさや作りに、こんなに違いはなかったけれど。

「やっぱりあんたは怒らない」
「また消えるの?」
「どうしたい?」
「……絶対に逃したくない」
「ハ、逃れられないのはきみのほうだ」

腰に腕が回り、彼はわたしを抱き寄せた。夢の中にいるような感覚でそれに抗うことなく彼の身体に身を寄せる。顔が近づいて、うっとりと目を閉じると唇が触れた。わたしが知ってるような生ぬるい、優しいキスはそこにはなかった。わたしはずっと、身体中が熱くなるような、こんなキスがしたかった。

「あんた、まだバージンだろう。ラッキーだなオレは」
「セックスってそんなに楽しい?」
「セックスもいいが、他にもたっぷり楽しいことはある。また二人で遊ぼうぜ」

お互いにしか見えない、誰かに説明することもできない不思議なものがわたしたちにはあった。それを使うことを、わたしたちは遊び≠チて呼んでた。ずっと身体に張り付く幽霊みたいなそれで近所の家のニワトリを殺したりして、わたしたちは喜んでいた。彼女……いいえ、彼は、わたしのとはまた違う、不思議な力を持っていた。いつも玩具のパソコンを手にしていた。
やっぱり、それを持つこの人にしか、わたしを分かってもらうことはできないのだ。今やっとそれがわかった。ずっとわたしはこの人の影を探していた。この人のそば以外、正しくないのだ。

身体中が熱を持って、マリファナを吸った時よりもずっと夢見心地でいるような気がするわたしは、なぜこんなにもうっとりとしてしまうんだろう。久しぶりに会えた懐かしい人に、全部めちゃくちゃにされてもいいから一緒に居たいだなんて思うのは、おかしいことだろうか。

なにがおかしくて、なにが正解なんだっけ?
いや、そんなのもう、どうでもいいかな。

「もうここには帰らない。それでいいな?」
「わたしたち、もう離れない?」
「離すわけねぇだろ。やっぱりオレはあんたを探してたんだ」

確かめるようにそう言うと、昔みたいに目を細めて、蛇みたいに彼は笑った。うっとりと夢見心地のわたしは彼の硬い身体や髪に触れて、強請るようにキスをした。この金色の髪がわたしはずっと恋しかった。
その晩の、大学生になってからずっと暮らしていた部屋でのセックスは夢見心地で、わたしはあるべき場所へやっと来れたのだと、ルームメイトのベッドの下から伸びる白い手を見ながら、全身に染み渡るように実感した。