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BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
- ナノ -
会えない夜も歌わねばなるまい


綺麗な顔をしているなあと思った。それから、初めてのセックスは痛みよりも、自分の中に他人が入っているという不思議な感覚の方が大きかった。その感覚が良いものなのか、悪いものなのか、あんまりわたしにはわからない。わからないから、またしてみたいと思った。気持ちよかったことだし。

彼にはそんなこと、言わなかったけれど。

「キスしたい」

もぞりと身体を起こして、彼にそう言った。彼はちょうど、脱がせたわたしの服を拾って集めているところだった。
彼の手からわたしの下着とか、リブのカーディガンが落ちるのが見えた。せっかく拾ってもらったのに床にもどってしまったそいつらをぼんやりみていると、頬に手が伸びてきて上を向いた。膝立ちする彼に、上から口付けてもらった。

やっぱり気持ちいいなと思った。彼に触れているとうっとりして、なんだから身体から力が抜ける気がした。安心をくれる。そんなもの世界のどこにもないと思っていたのに。

「風呂に入るか?」
「うん」
「……なんだよ。入るんじゃあねえのか」

抱きついて彼から離れずにいた。ブチャラティは仕方ないなと呟き、笑ってわたしを抱き上げるとフローリングから立ち上がった。そしてゆらゆらと足を揺らすわたしを連れて、バスルームへと向かった。

熱いお湯で二人身体を洗った。ブチャラティの髪を洗いたいと言ったらなぜかわたしの頭も洗われてしまった。人に髪を洗われるなんて経験が、少なくとも記憶にある中では初めてだったので、なんだかドギマギとして身体が固まる。そんなわたしに、ブチャラティは笑いながら、「目にシャンプー入らないようにな」だなんて言った。

タオルを被せられて拭いてもらう頃にはようやく身体の緊張も解けていたので、すごく気持ちよかった。セックスもそんなようなものかもしれない。最初違和感があっても、すこし慣れてから、最後の方はすごく気持ちがよかったから。

ブカブカのTシャツを着せてもらって、ベッドに案内された。のんびりしてろって言うかのようにゆったり座らされて、クッションを渡される。部屋は間接照明でオレンジ色に薄暗く染まり、そして彼が開けた窓からは穏やかな風が流れ込んで麻のカーテンを揺らしていた。ベッドのそばに立っているブチャラティは身をかがめて、わたしの額に口付けながら問いかける。

「何か食べるか?」
「皮剥いて、綺麗に切ってあるりんご食べたい」
「それ以外でたのむ」
「ふふ。なんでもいいよ」

わたしが駄々をこねるフリをしていると、彼は代わりにキッチンからミネラルウォーターとワインの瓶と、オレンジ、それからナイフを持ってきた。盛り沢山だから、腕で抱えていた。
彼はベッドに乗り上げると、膝に乗せたクッションの隅をいじって待っていたわたしの向かいにあぐらをかいて座った。

「あら、立派なブラッドオレンジ」
「これで勘弁してくれ」
「フルーツをよく買うの?」
「道を歩いているとよく貰う。これはメニーニさんがくれたんだ」
「ああ、あの人は実家が立派なオレンジ農家だもんね」

じっと顔を見つめられていることに気が付いて、彼の手の上にあるまん丸のオレンジから顔を上げた。

「街の人と話すのか?」
「話すよ」
「チームの奴らとはあまり口をきかないのに?」
「そうかな。……わたしはみんなが好きだよ。街の人も好き。だってそういうのって全部、あなたにとって大事なものでしょう」

彼の手からオレンジとナイフを取ろうとすると、取り上げるみたいに少し高いところに持ち上げられた。じっと彼と目が合って、しばらく沈黙した。だけどそれから、彼は短く「オレが切るよ」
と言って、視線を下ろすと、慣れた手つきでオレンジの皮にナイフを差し込んだ。

甘酸っぱい、すごくいい香りがベッドの上に満ちた。三日月型に切り分けられた切れ端を受け取って、真っ赤な果肉に歯を立てた。じゅうっと中の果汁が漏れ出して、口いっぱいに甘味が広がる。さっぱりとした酸味もあった。きっとこのオレンジは太陽をいっぱいに浴びて育ったのだろうな。そう思った。甘い果物が好きなわたしは、甘いブラッドオレンジが大好きだった。
その形が、見た目は怖いくらいに赤く染まっていても。

「うまいか?」
「おいしい。泣いちゃいそう」
「は、なんだそれは」

笑うこの人をずっと見ていたいと思った。思ったから、途端に恐ろしくなってきた。胸の中がざわざわして、その奥が痛む。こんな時どうすればいいのだろうか。

わたしは本当に、どうすればいいのかわからず、絶対に尋ねてはダメだと思っていたことを口に出してしまった。

「……ねえどうして、そんなに優しいの?なんだか変じゃあない?」

ブチャラティは笑うのをやめて、黙ってしまった。黙ってから、腕を伸ばしてわたしの果汁に汚れた手を握る。持ち上げた指先にキスをされた。そんなことをされたのは初めてだった。
彼は静かに話した。

「おまえが初めてだったってのに、あんなとこでやっちまった」
「あんなとこって、ドア入ってすぐの床?」
「そう。馬鹿だなオレは。酷いやつだ」

罰が悪そうに笑うと、自分の首に触って俯いた。わたしの手を握る彼は親指の腹で、わたしの手の甲を撫でた。

ドアの前でなんだかキスをしてしまったわたしたちは、そのまま雪崩れ込むように彼の部屋に入って、床の上でセックスをした。あんなにも衝動的なブチャラティを受け入れたことが、わたしにとって悪いことなわけが無いのに。

なのにそんなことを彼は気にしてきたのか。少なくともブチャラティが今まで関わってきた女の人たちは、初めてのセックスが床の上ってのを嫌がるのだろうなと思った。
わたしはよくわからなかった。こんな風に生まれ育ってこんな立場に身を置いて、今まで身体を誰にも開かれずにいられた。その上、最初が他でもないこの人であったのだ。それ以上になにを望むと言うのだろうか。それ以上を、彼と一緒にいたらわたしも、いつか望むようになってしまうのだろうか?人の欲に果てはないの?

「どうした?」

考えていたらぼんやりとしてしまった。小さなオレンジの皮を膝の上で手に持ったまま、なんだか変な気分だった。
わたしは幸せなのだ。ただでさえ彼の元で少しは役に立ている。そして今までにないくらいに、彼と過ごしているこの時間が楽しい。我にかえるとそれが怖かった。こんなことを知ってしまっては、わたしのこの先の人生は?この人がずっとそばにいる確証なんて少しも無いのに。

「いま、わたしすごく幸せなの」

そう言ってしまうと余計に胸がぎゅうっと締め付けられて、どうしようもない気分が増した。ふと、わたしの手を握る彼の手に力がこもる。少し痛いというのに、やさしくて、温かかった。

「……キスしたい」

わたしがそう言い終わるか終わらないかの内に、彼の唇が触れていた。あ、と声を上げる間もなくわたしは彼に押されて、柔らかなベッドに背中から倒れた。オレンジが転がり落ちて、きっとシーツを汚した。
深くて長い、ブラッドオレンジの味がする情熱的なキスだった。やっぱりすごく気持ちいい。どうしよう、身体がすごく熱い。わたし、今度は、どうなるんだろうか。

「安心しろ。もう辛くはさせない」

たまらなく優しい声が、焦燥に襲われているわたしを宥める。大丈夫だと、なにも心配はいらないのだと、そんなふうに何度もキスをしながら、人生で2度目のセックスをした。
とろけそうに気持ちがよかった。知らない感覚を、今日だけでわたしはたくさん知った。誰かを身のうちに受け入れるってことが、すごく怖くて、愛おしいことであると知った。

彼の肩を押して、二人で身を起こした。仰向けになった彼の上で腰を落として、息苦しく思いながらも自分からキスをした。頭の後ろや、腰を彼の手が撫でてくれる。

「……どうして泣く?悲しいのか?」

汗ばんだ首を撫でられて、彼にそう尋ねられた。いつの間にか出てきたそれは彼の頬に落ちていた。彼はそれを拭おうともしない。

「ちがう」
「理由は言わない?」
「言わない。だけど、あなたが好き。誰よりも……死ぬまでずっと」
「……そんな言葉をオレに使っていいのかい」
「ほかに誰に使うの?」

素直に答えたら、ブチャラティが息を呑むような気がした。それから、頭の後ろを引き寄せて、唇に短くキスをくれる。それが離れると、すぐそばで彼がわたしを見つめながら、はっきりとした声で言った。

「おまえを愛してるよ、ナマエ。こんなことを言うのは、後にも先にもおまえだけだよ」

なんと残酷な言葉だろうかと思った。
そしてわたしも、とても残酷な言葉をこの人に伝えてしまったのだと、愚かにもようやく気がついた。
二人で引き返せないところに来てしまった。どうやら覚悟を決めなければならないらしい。わたしはこの先の人生でも、この人しか愛せないのだから。