冬虫疑夏
窓を開けて、その側のフローリングに座って本を読んでいたら遠くからお囃子の音が聞こえてきた。まだ今年は蝉の声も聞いていないっていうのに、もうお祭りの季節になったらしい。暑い夏は嫌いだが、冷夏ってのもなんだか不気味で落ち着かないなと思う。
「学校の近くの神社でやってるんスよ」
眠そうな声とともに腕が伸びてくる。低いベッドから這い出てきた彼はわたしのお腹に腕を回して抱き寄せた。
わたしが本から顔を上げて外を見つめているのを見て、この賑やかな音を気にしていることに気がついたみたいだ。生まれた時から杜王町に住む彼は、遠くに聴こえる素敵な喧騒の出所を知っている。
わたしは知らなかった。お祭りってのはかつて居た街で子供の時に行ったきりで、進学とともにこの街に来てからは部屋に引きこもってばかりだったから、ここから駅までの道のり以外の地理すら、少し前まで怪しかった。
だけど今はいろんなところを知っている。イタリア出身の男性が営む絶品のレストランや、珍しい本を置いてる街の本屋さん。観光地みたいになってる鉄塔に住む男の人、彼の友人達がよく集まるカフェ。おいしいパン屋さん、有名な漫画家の自宅に、不思議な音が聞こえてくると噂の岬。
そこで最初にキスをした。変な名前の岬だねって、笑って隣にいる彼を見上げたら、少しびっくりした顔をした後に仗助くんが身をかがめたのだった。
たくさんの場所に彼が連れて行ってくれる。程よくそばにいてくれる。わたしを笑わせて、たまに怒らせたり、時に残酷に悲しませる。
わたしも同じことを、彼にしているのだろうか?
ぎゅうと抱き寄せられながら唇がうなじに触れた。
「夜に行きましょーよ。オレ祭りって嫌いじゃねえ」
「うーん、またかわいい女の子たちに睨まれるのはイヤだな」
不満を口にしたのに耳元で笑う気配がして、左の頬に伸びた大きな手がわたしの顔を反対へもたげさせる。そのまま唇が交わった。今年の春に大学進学でこの街へやってきたわたしが出会った歳下の彼は、いつもとっても上手なキスをする。
彼の同級生たちに睨まれるだけならいい。怒れる女の子たちってとても強いから。だけど、泣きそうな顔をされるのがどうにも耐えられないのだ。だってそれはわたしと同じように、やるせなく彼に恋をしている証拠だから。
最初柔らかく口付けられていたが、少しずつ深くなってゆくとわたしも体を捻って、彼の方を向く。夢中になって、手にしていた本がばさりと床に落ちてしまった。ああ、栞を挟んでないのに。そんなことを気にしてる間にわたしはいつのまにかひんやりしたフローリングの上に仰向けにされていた。覆いかぶさる仗助くんはわたしの肌を大きな手のひらで撫でて、まだキスをやめない。
下を見るとぴたりと自分たちの下半身がくっついていた。不思議な光景だなあといつもながらに思っていると、呼吸を荒くした仗助くんが同じく息を乱すわたしの汗ばんだ肌を舐める。わたしがやめてって嫌がると、彼は嬉々としてそういうのを続けた。わたしは彼が動くたびに横を向いて首を仰け反らしてしまうものだから、そこにまた彼の舌が這う。その小さな子みたいないたずらから逃れようがない。
「行こうぜ、祭り。なぁ、なまえさん」
こくこくと頷いた。唇から勝手に漏れる声のせいで言葉では返事ができないからだ。冷夏で家の中まで涼しいはずなのに、わたしも彼もひどく汗をかいてしまっているし、フローリングは生ぬるく湿り、纏わりつくみたい。
真昼間に、すぐそばにベッドがあるっていうのに、わたしたちは床の上で何してるんだろうか。
強すぎて受け止め切れない快楽に思わず浮いた背中と床の隙間にするりと片腕が入ると抱き寄せられ、彼の胸板にわたしの胸が潰れた。名前を呼ばれて、背けていた顔を上げると彼がじっとわたしを見つめている。
揺さぶられて揺れる視界で、彼の甘くて端正な、少し冷たい顔をうっとりと見つめていたが、一番奥を強引にえぐられるような感覚に、思わず声を上げて目を閉じてしまった。苦しい。奥に強くて打ち付けられるたびに息ができない。彼の髪が乱れてて、可愛くて仕方がない。
そういうわたしに仗助くんがまたキスをした。わたしの中にある怖いくらいの質量は変わらず一番奥に叩きつけられるし、固い指先は外にある腫れた場所を押しつぶす。唇が離れるたびに乱れた息を逃がして酸素を吸うが、息苦しさは改善されない。この、たまにどこか哀願した顔を見せる男の子は、わたしを殺そうとしてるんだろうか。
この街に来る前のことを何一つ思い出したくなかった。一人で逃げるようにこのアパートへ来て、ひっそりと暮らすはずだったのに、わたしはある日の大学からの帰り道、不思議な矢に撃たれてしまった。全てはそれから、今に至る。
東方仗助。こんな魅力的な男の子と出会うはずじゃあなかったのに。
いっそ殺してくれればいいのに、彼は少しずつわたしに夏を運ぶ。その恐ろしく優しい能力のように、彼はわたしの中の何かを直してしまうのかもしれない。彼やわたしの意思に関係なしに。
笛や太鼓の賑やかな音がわたしの中に流れ込む。
逞しい腕によってベッドへ優しく降ろされて、くたりと身体を横たえた。仗助くんはまだまだ元気に見えるけど、やっぱり身体は汗ばんでいた。
髪を撫でられながら汗かいたねって言うと、またどうしてか仗助くんが嬉しそうに笑ってわたしの額にキスをしたから、わたしも唇に同じように返した。
「なぁ、蝉が鳴いてるぜ」
今年初めてのお囃子と蝉の声を、彼と一緒に寝そべりながら聞いた。空は雲をたっぷりとたたえ、その隙間から傾いた日光が部屋に強く差し込む。梅雨はそろそろ明けるだろうか。
どうしたものか。もう夏は始まってしまったのかもしれない。