のみこめないわたしのいびつ
名前を呼ばれ、ぎゃっと叫んで振り向いた。わたしは大好きなブランドの新作のブラウスを着て、お気に入りの靴を履いて、今まさにこの家を出ようとしているところだった。一人きりのこの家から。
「うるせえな〜。でけえ声」
「なんでいんの!怖い!」
突如後ろに現れた男から逃れるべく玄関の扉へ手をかけた。しかし腰に伸びた両腕に引っ張られ、気がつけば背中から抱き寄せられていた。
彼の匂いがする。身を縮めそうになるが、それでも逃げ出そうともがいた。
「香水変えたのか?」
「やだー!離して!」
「どこの男のところにいくんだ?」
「関係ないでしょ、わたしの男でもないくせにっ!」
「まーまー」
「まーまーじゃない、胸触んな!」
抵抗を続けているのに力で敵わず、背中を廊下の壁に押しつけられた。笑ったホルマジオの顔が見えたと思ったらキスをされていた。唇が斜めに合わさり、舌が入り込む。スカートの中に突っ込まれた手が太腿を撫でるのを、きもちいいって思ってしまった。この男の巧妙なキスによって確実に身体が熱を帯びてゆくのがわかる。長いそれが終わる頃に、わたしはもううっとりとしてしまっていた。
「なぁナマエ、すげー顔してるぜ」
「な、なに、どんな……」
「エロい顔」
呼吸が乱れたわたしの顎を掴みそう言う彼。正直なところ、もうすでに全身が期待していた。だけど最後に理性を振り絞って逃げ出そうと思った。彼の腕を自分のスタンドで振り解いて部屋の奥、窓から逃げてやろうと。この人のスタンド能力でそこまで追うことはできないはず、というよりも、その気になればいくらでもできるだろうけれど、わたしにそこまでするはずがない。
だけど気がついたら、なんだかわたしは足が遅くなっていた。自分を取り囲むすべてのものがいつのまにか少し大きくなっている。振り向いた先、既にかなり見上げたところに静かに笑うホルマジオがいて、わたしは力が抜けて床に座り込んでしまった。指先に触れるフローリングの溝が、こんなに大きいわけがない。
「手間かけさせんなよ」
微笑む彼にクラクラした。いつのまにか首にたらりと自分の血が細く流れていた。ああこの人って、わたしのかわいいもので満ちた部屋が本当に似合わない。
☆
大きな窓が好きだ。光がたくさん差し込む寝室が好きだ。広いベッドが好きだ。たくさん眠って、夢を見たい。一人が好きだ。誰一人このお城のように大切にしている家にいれたくはない。
それなのにこの男はいつも無遠慮に侵入し、わたしの領域を踏み荒らした。愛という言葉を免罪符にしてわたしが育てた花を踏み荒らす。今もこうして、まるですべて自分のものみたいに、わたしのベッドにわたしを引き摺り込んでわたしの靴を脱がし、わたしの服を脱がせる。大きな窓から差し込む街灯の光が笑う彼を右側から照らしている。いつもホルマジオはご機嫌だった。今も例外なく、鼻歌でも歌い出しそうな調子でわたしの下着を脚から抜いた。
「おまえの選ぶ下着好きだぜ」
「あなたのために選んでない」
「それがいいのかもなぁ?」
「どうかしてる」
「おめーの選ぶ服も、髪色も、香りも全部好きだぜ」
そう言いながら彼は裸にされたわたしの首筋に顔を埋め、両手で乳房に触れた。肩が揺れて声が漏れる。
家を出る前の身支度でシャワーを浴びた後、胸元に新しい香水を振りかけた。かわいい香水瓶なのだ。少し甘いのに子供っぽくなくて、淡い暖色のイメージを持つ、深みのある香り。まだ新しくて鼻に慣れていないから自分の身体から静かに香っていることがよくわかった。
この前、近所の花屋のお喋り好きなお婆ちゃんが言っていた。男が変わるたびに香水も変えるもんだよって。だからわたし、ついにこの人を跳ね除けようって決めてこの香水を選んだ。次こそは拒絶してやるぞと固く誓って。
それなのに結局こうなる。雪崩れ込むように受け入れてしまい、ずるずるとこのひどい男に全身で甘えたくなる。
怖かった。だってまるでこの人、いつかわたしを、笑ってぺろんと飲み込んでしまいそうに思えたから。
「今日はどこに行くつもりだった?」
「あっ……や」
「教えろよ。新しい服に、新しい香水で誰んとこに?」
指先で外側を撫でられていたところにたぶん、二本一緒に彼の指が差し込まれた。苦しくて呼吸が乱れる。だけどよく潤ったそこは、きつくても彼の指を受け入れて奥へと誘おうとする。ゆっくり出し入れをされるそれに息を乱し眉を寄せた。
彼は笑っている。
「ホルマジオ、くるしい」
「オレの質問は?応えろよ」
「あっ!やめ、ああ」
彼の別の指が、いつもやめてと言ってしまうところに触れた。何度も捏ねて押しつぶすみたいにされて身体が震える。ああもうだめだって、言葉にすることもできずに簡単に達してしまった。
気がついたときには必死で呼吸をしていて、ホルマジオはわたしの汗ばんだ額に口付けていた。お気に入りの大きな枕の上、彼が唇にもキスを落とす。うまく息ができなくて苦しい。死んじゃうよって、そう言いたいのに彼の腕を掴むことで精一杯だった。
彼はきっと質問なんてどうでもいいのだ。
キスをしながら、脚の付け根に熱が触れた。器用にもそのまま、ホルマジオは腰を進めてしまう。ゆっくりとわたしの体内を暴くそれに呼吸の仕方も忘れ、彼の背中に抱きついて耐えた。やっと全部入った頃に唇が離れた。圧迫感のせいで、わたしは陸に打ち上げられた魚みたいだった。
この人はわたしがどこでなにしてたってほんとは気にしてない。今だけ手中に収めたいだけだ。
「おまえのその顔、たまんねぇよな。オレでいっぱいんなっちまって、泣きそうで」
「はあ……は」
「今日会う男とも、こうするつもりだったのか?でもオレとの方がいいだろ?」
ぴたりと隙間なく、彼はわたしの中に収まっている。いつもそうなのだ。結局いつも、誰と寝てみても、この人より気持ち良くなれる人なんていない。そんなのよくわかっていた。だから怖くて逃げ出したい。この男から離れたい。
でもいつもうまくいかない。逃げた先にいつも待ち構えられているみたいに、わたしの新しいものを彼は簡単に受け入れて愛してしまう。そう考えたら、せっかく咲いたきれいなものを踏み荒らしたり、摘んでしまっているのはわたしの方なのかもしれないと思えた。
この人はそんなわたしを、優しい態度で引っ張り寄せ、抱きしめ、甘やかして離してくれない。
「やだ、やっ、や」
「ほら、嫌じゃあねえって。気持ちいいんだろ?」
駄々をこねる子供をなだめるみたいに、ホルマジオはわたしの頭をぐしゃりと撫でた。だけどやめてって言ったことはもちろんやめてくれない。そのまま深くキスをされ、腰を両手に掴まれて、身体の奥を強く圧迫された。彼と自分の唇の隙間から悲鳴が漏れる。涙が目尻から出てきた。
目の前がチカチカして、キスのせいで酸素が足りなくて、自分が意識を保てているのか、保てていないのか、曖昧でそれすらもわからなかった。
新しい香水の香りとわたしの好きな、ホルマジオの匂い。首の、彼が付けた小さな傷を舐められた。それだけがわかる。
「かわいいなぁおまえ。愛してるぜ」
そう聞こえた。そう思うならば、普通は嫌がることなんてしないのだ。そう思うならば、自分のいないところでの相手の幸せを願えるだろうに。
歪んだ執着なんていらない。まっさらな愛だけが欲しい。母親が生まれた子供を愛するみたいな、欲なんてないような。わたしがついぞもらえなかったもののような。
そんなバカなことばかり願うのは、きっとわたしが汚れてぐちゃぐちゃになった欲に塗れているからだろう。わたしは子どもの頃から、幻想に恋をしているだけなのだ。わかっている。
溶ける意識の中で自戒じみたことを淡く考えながら、ベッドの上でぐったりとしていた。仰向けになって目を閉じて、ひどい脱力感のせいで指一本動かしたくなかった。このまま身体まで溶けて死んでしまえたらいいのに。この人に抱かれた後、いつもそう思った。
「疲れちまった?」
「……」
「そう睨むなよ。ナマエ?」
上から呼びかけに視線だけを投げる。無意識に眉を潜めてしまっていた。
「勝手な男」
「愛情深い男だろ?」
「深いもんか!気が済んだら出てって」
「おまえセックスんときはあんな可愛いのになぁ」
出ていくどころか、彼はわたしの隣に座ってさっきから勝手にタバコを吸っていた。部屋に匂いがつくからやめてっ言ってるのに、この男はそんなの知るかって感じにいつもぷかぷかと蒸すのだ。
わたしの髪に香りをつけてゆく。肌に歯や唇の痕を残してゆく。それらを彼のいない日常の中で感じたり目にするたびに彼の肌の感触や、声や、どうしようもなく気持ちいいセックスまで思い出す。
「……あなたって怖い、ホルマジオ」
「どっちがだよ」
続くわたしの言葉を遮るように降ってきたキスがタバコの味がした。舌を絡ませていると、疲れてしまってどうしようもないというのにまたその気になってくる。またわたしにゆったりと覆いかぶさったホルマジオの顔を見つめながら、自分はなんてどうしようもない女だろうかと考えた。
そしてそのどうしようもない女に放蕩する、この男もまたどうしようもない男だろうか。
「……おまえって、まじに恐ろしいぜ」
ホルマジオは笑いもせず、静かな調子でそう言った。なんとなく、わたしは重たい身体を少し起こした。腰に彼の手が伸びる。
「時々、おまえのことしか考えられなくなる」
そう言う彼の胸に触れ、驚きで満ちながらも静かに自分から唇を合わせた。自分の胸のうちに得体の知れない、真っ黒なものが湧き出てくるのを感じた。初めての感覚であった、これはなんだろうか。
広いベッドの上に彼をゆるりと押し倒した。伸びてきた手がわたしの、重力に逆らわずに垂れる髪に触れる。ホルマジオは熱に浮かされたような顔をしていた。剥き出しの肌を彼の手が滑るのを感じながら、ああこれが独占欲というものかと、全身に染み渡るように思い知った。そしてそれはきっとイヴが食べた果実みたいに、味を知ってしまえばもう戻れないようなものであろう。
「……あなた、もう逃げられないね」
彼の熱い胸に手を這わせ、白い煙の中でそう呟いた。心臓の鼓動を手のひらに感じながら、うっとりと彼に口付け、硬い手のひらに髪を撫でられた。
題名:徒野さま