胸騒ぎの恋人
彼だけの静止の世界。真夜中の自然公園の丘の上はとても開けていた。草花は白く凍りつき、響き渡っていた銃声も嘘のようになくなった。静かで美しいその情景に一人、ふらりと立つ白い装甲を見に纏う男の姿。彼はこのために生まれたのだと思った。彼の世界に、誰も入ることを許されない。目に見えて表される彼の傲慢な欲望の形は、あまりに美しく鮮明にわたしの脳裏に刻まれてしまった。
それを遠目に眺めてから、わたしの中の何かがずっと、ざわざわといやにうるさい。
「うげ、痛ッ」
物凄い衝撃を喰らい、それから全身の左側に走る痛み。目を開けて身体を起こすと、わたしは床の上にいた。まだ眠たくてぼんやりする頭で見上げた先にいる男と目があう。
「んなとこで寝んな」
どうやらギアッチョはわたしが気持ちよく眠っていたソファーを力一杯に蹴り、その衝撃にびっくりしたわたしが転げ落ちたらしい。なんてかわいそうなんだ、眠ってたわたし。
んなことを考えていたら、半分床に落ちて、残り半分まだわたしの身体にまとわりついている毛布をギアッチョの手が掴み上げて、わたしの頭にバサりとかけた。あったかいなと思いつつ、なんでそんなことをされたのか不思議だった。
ああ眠たい。目を擦ったら荒いラメが自分の人差し指についた。さいあく。そういえば仕事終わりの格好のまま眠っていたなぁと、自分の剥き出しの肩や膝を見て思った。
ギアッチョはわたしが落っこちたせいでスペースのできたソファーにドカリと座った。彼も仕事終わりのようだ。どこか気が立ってるのに、どこかすっきりしてる感じが彼から窺える。わたしも毛布をかぶったまんまに立ち上がり、またソファーに戻った。3人掛けのソファーの彼の横に座って、端に縮こまってまた丸くなる。
「オイナマエ、てめーの家に帰れ」
「なんでよ、疲れたんだもん」
「その格好どうにかしてからにしろ」
「なに、なんでよ〜〜眠いから話しかけないで」
投げやりにそう言って、彼に背中を向けて背もたれに頭を預ける。毛布は若干埃っぽかったけどあたたかい。ああこのまま静かであれば、また眠れる、たぶん、うん、いい感じ。眠りに落ちる寸前って、すごくきもちいい。
そう思ったところで後ろに毛布を引っ張られて、ひっくり返ってパチパチと瞬きをする。目の前にわたしを見下ろす彼の顔があった。頭の後ろや背中が温かい。毛布越しに彼の膝の温度を感じる。さすがスケーター、足の筋肉がものすごいなって、酔ったソルベがふざけて言ってるのを見たことある。(そのあとジェラートが機嫌悪くなって、彼らはひっそりと痴話喧嘩をしていた。)
また眠るのを邪魔をされた。さっきは頭にまで毛布を被せたくせにな。
「ふざけんなよテメー」
そんな風に言いながら眉間にしわを寄せる彼が、なにに怒ってるのかよくわからない。髪が乱れて、彼の前でおでこを晒してるのがなんだか落ち着かなかった。
「ぐう」
「寝たふりすんな」
「やっ」
邪魔されたのが腹立たしくて目を閉じてみたけど、ギュッと鼻をつままれて小さく悲鳴を上げる。痛くて涙が出た。鼻をさすりながら眉を寄せて彼を見つめる。
「なんで眠らせてくれないの」
「着替えろ。まともな格好で眠れ」
「うわあ、女の格好にケチつける男って最低」
「うるっせーよ!それはテメーの趣味じゃあなくて仕事の服だろ。しかも全部丸出しじゃあねぇか!」
そう言われて首を動かし、仰向けにひっくり返ったままの自分の身体を見下ろし確認する。
胸元が大きく開いたデザインのドレスの脇のファスナーは苦しかったから下ろしっぱなしだった。それはウエストのあたりまで伸びてわたしの肌を晒してて、その上馬鹿みたいに裾丈が短いから、こんな体勢でいるとほとんどわたしの下着は丸出しだった。でもこの下着もかわいいやつだし良くないだろうか。同じく超かわいいジミーチュウのパンプスもその辺に脱ぎ捨てたし、裸足のまんま。まあ確かに、彼の言う通りほとんど丸出しで裸みたいなもんかも知れない。いいや、裸より下品かも。
だけど許して欲しかった。着替えはここにないし、とっても疲れているんだわたしは。肉体的にも、気持ち的にも。
ここから見える自分の太ももに赤い痕がいくつもあるのがとても嫌だった。なんとなくそれに触りながら彼に話しかける。
「……ギアッチョは疲れてないの?仕事終わりでしょ?」
「疲れとるわ。だがリゾットにアジトで待ってろと言われてんだよ」
「ふーん……あなたは元気だなぁ」
「テメーおれの話聞いてねぇだろ」
「これ、消えるかなぁ。明日にはなくなってないかな」
なんとなく吐露してしまった。どうしたら早く消えるだろうか、そればかり浮かぶ。
そんな、小さないくつかの痣をなぞるわたしの手に、上から彼の大きな手が被さるのを見た。顔を上げて彼を見上げる。ギアッチョはゆったりソファーに座ったまま、わたしのその手をぎゅうと握った。いつものグローブをしてる、血管が浮き出た手は触れるとすごく硬かった。物や人を殴りすぎなんじゃあないかなぁ。
「ギアッチョ?」
名前を呼んでも、不機嫌そうな顔の彼は静かだった。反対の手が首に触れて、そこにもある同じ痣に触れる。ざらりと硬い指先が首や、鎖骨、その下の胸の膨らみ始めのところに触れた。ここに男の唇が触れ、きゅっと吸われたあの感覚。きもち悪かったな。こう言う仕事も、誰かに身体に触られるのも、実はわたしはあんまり好きじゃあなかった。だけど得意なのだ。必要ならばやるし、リゾットの率いるこのチームの役に立つのは好きだ。わたしはきっとそのために生まれた。
しかしこの男は違う。彼は自身の欲望や信念のためにきっと生きている。みんなそうだけれど、形として見たのはこの人だけ。そこにどうにも惹かれてしまうのは、あれがあまりに美しかったからだろうか。
そんな男の手に触れられるのはわたしの密かな悲願であった。それがまさか、自分がこんなに酷い状態の時だなんて。
「……誰かの着替えでも探してくる」
小さくそう言った。すると彼の両手が離れて、なんだか少しホッとする。しかしそんなのも束の間。一瞬額に触れる柔らかな感触。思わず閉じてしまった目を開けたときに見た無表情の彼。わたしは起き上がった。それから立ち上がって、ドレスの裾を引っ張りきちんと下着を隠しながら、裸足で部屋を後にした。
だけどすぐにギアッチョのいる部屋に戻ってくることとなった。この限りなく廃屋みたいな今のアジトはだいぶ嫌いなので早く変えてくれないかなぁと、汚れた自分の足の裏を見て思った。
「その辺の部屋に結構服あったけど、男臭くて無理だった」
「ハッ、だろーな。ここには洗濯機もねぇ」
「女の子の仲間が増えないかなぁ」
「喧しいのはおめーだけで充分だ」
そう言いつつ彼が自分のシャツのボタンを外し始めた。一瞬体が固まり、その場に動けなくなる。蘇る今回の任務での出来事。ハッとして大声をあげた。
「えっ、なに?なに!?やめて!」
「あ゛!?変な勘違いしてんじゃあねぇ!?」
走って部屋を出ようとしたわたしの二の腕を強く掴まれて振り向かされた。その拍子に奴の頬を殴ってやった。こいつなに考えてんだ!苛立ってそう思ってたけど、目の前には困惑してどうすればいいかわからなくなってるような男の子の顔があった。黙ってそんなのを見上げていると、黙った彼がわたしの腕から手を離し、そして片手に持っていたものを肩にゆっくりと両手で掛けてくれた。
ギアッチョの白いシャツだった。この人はシャツが好きで、似てるデザインをたくさん持ってる、そのうちの一つ。新しい生地の匂いがした。
「ギアッチョ」
貸してもらった服を握り締め、またソファーに戻ろうとわたしに背を向ける彼の手を掴む。振り返った彼に尋ねた。
「わたしが着てもいいの?あなたのを」
「いいから貸してんだろ」
「殴ってごめんね」
「ゆるさねー。根に持つかんな」
「う、ごめんなさい。……なんでも聞くから許して」
申し訳なくて、寄り辺ない気分だった。そういうわたしの手を強く握り返して引っ張り、ソファーの方に戻る彼の頭の後ろを見ながら、初めてジェントリー・ウィープスを見た夜を思い出した。空いてる方の腕を袖に通すと、まるであの静けさの中にいるみたいだ。ああ、極低温の世界だ。彼の世界。彼の心臓だけが動くことを許される。
なんて、わたしがあそこにいたら死んでしまうんだから、ありえないけれど。
「……手がキラキラしとる」
「うそぉ、わたしのアイシャドウついちゃった?ごめんね」
「そういやいつもと違うな?」
「うん。ほんとはマットな方が好きなの」
「マットってなんだ。車の艶消しと同じか?」
「そうそう。落ち着いててカッコよくて好きなの」
「ふぅん」
いつもより華やかな化粧をしていた。もうよれて、口紅もラメのパウダーもほとんど落ちてしまっていたけれど、またソファーに座った彼はじっとわたしの顔を見つめた。さっきよりわたしたちは近くに、隣に座っていた。
「もうほっぺた痛くない?」
「いてーわボゲ」
「う、なにか冷やすものを」
「いーからここいろ」
立ち上がろうとすると腕を引っ張られてまたソファーに落ちた。ああまた近づく。脚が触れて、彼の顔が、さっき見つめられていた時よりもすぐそばに。シンと静まり返った部屋の中で、軽いリップ音だけが聞こえた。
「何でもすると言ったな?これで勘弁してやる」
「……」
「んだよ怒ったか?」
黙るわたし。ちょっと焦ったかのような色を見せ始めたギアッチョの態度。また部屋は静かになった。だけどわたしの胸のざわざわは消えない。ざわざわ、どきどき、バクバク、どれもきっと当てはまる。静かな部屋の中、わたしが騒音の元になってるみたいだ。
やっぱりわたしはあの静かな世界に入ることはできないようだ。それでいいと思った。だってこんな風にわたしの胸の内が騒いでる時の方が、ギアッチョはよく笑ったり焦ったりして、すごく楽しいから。
「んなキスで足りるか!」
そしてやはりわたしは大声を出して彼に飛びつく。わたしの勢いに押されて、肘掛のほうに倒される彼に力強く抱き留められながら、彼のシャツの中で長いキスをした。