海鳴りにあずけておいて
よくヒーリングのために雨の音だとか波の音が入ったカセットテープがある。水の音を人間が好むのはどうしてだろう。羊水の中を思い出すだとか、そんなのを聞いたことがあるけれど、わたしは水の音で癒しを得たことはなかった。
決して嫌いなわけじゃあない。海のそばで音を聞くのはとても好きだ。夢の中にまで夜の雨音が染み込んでくるあの曖昧な感覚も好き。しかし、どうにも心がざわめくのだ。
わたしはいつもそこに心の体力を使ってしまう。好きなアーティストのさびしく甘い歌声と、泣いてるみたいなエレキギターを聴いている時に感じるような、あれと同じ感じがする。
「リゾット」
ようやく見つけた広い背中へ呼びかけてみた。返事の代わりに、振り返りもせず片手が上がる。昼間のカラッとした暑さが嘘みたいに船の甲板に吹き付ける風はとても冷たい。ダサくて下品なデザインの水着を着ているわたしには少々厳しい環境だが、先程その辺で拝借したシャツを羽織っていた。手すりに腕を置いて水面を眺める彼の隣へ並んで、下から横顔を見上げる。
「なんだか寂しそう」
「そう見えるか」
「そう感じる」
その辺から拾ったタバコの箱を差し出すと彼の長い指先が一本手に取った。労いを込めてライターでその先に火を点そうとしたが、わたしの手で覆うだけでは強い海風が中々火をつけさせてくれない。彼の大きな手が風を遮るのを手伝ってくれて、漸くきざみが朱色に色づきはじめた。その明かりは彼の彫りの深い顔を美しい彫刻みたいに照らしていた。
わたしも箱の底を叩いて、指先ほどの高さだけ飛び出してきたものを唇に咥える。こちらは結構すぐに火がついた。また、隣の彼の手を少し借りたが。
2人して並んで、仕事終わりの一服をした。
そこそこ大きな客船は絢爛かつ下品な明かりや装飾をそのままに薄気味悪く静まり返っていた。先ほどまでの喧騒を思い起こすと、今はとても落ち着く気分だ。
骨が折れる仕事ではなかった。わたしは激しい音楽だとか女の子たちの甘い笑い声で溢れる上階から、彼はメタリカで身を隠して関係者が行き交う階下の方から、ターゲットを含めた人間たちを片付けていった。はじめはとても煩かった音楽も、わたしのスタンドが機材を壊して止めてしまった。
テレビにも顔が出るような政治家が、浮世から隠れるように海上で行うこの派手なパーティは本当に気持ち悪くて、そこで選ばれる曲もひどく趣味が悪かった。
モデルみたいな女の子達やら酒やら食べ物やら薬やらを集めて、好き放題に下劣な贅を尽くしているような、まさに酒池肉林な船上。まあ、そういう場だったからわたしも容易く潜入することができたし、わざわざ逃げ場のない海の上にまで出てきてくれるから仕事がやりやすかったのだけれど。
クルーズ船の謎の大量不審死のニュースは、新聞の片隅にも乗らずにどこかへ葬られてしまうのだろう。それを知る少数の者たちだけに痛烈なダメージを与える。わたしたちは今日、そのためにここにいる。
ターゲットを含む船の上の者たちは今やみんな、立場関係なしに仲良く床に転がっている。政治家も、ボディーガードも、わたしと同じような水着で肌を晒した女の子達も、ウェイターも、船上員達も。地位も年齢も性別も何もかも、隔たりなく平らになっている。なんて平等な空間だろうか。
そう考えてみると、わたしたち二人の生者の方がよっぽど除け者である。いつだって、どこでだって、わたしたちはそうだったけれど。
現在客船が漂うここは大して陸から遠くはなかった。この後は船の下層に用意してあるエンジンのついた小さなボートで抜け出す予定だが、まだ彼にその気は無いらしい。
様子を伺うつもりで手を伸ばして彼の腕に触った。するとその腕が静かに伸びてきて、風でシャツがはだけたわたしの剥き出しの肩を抱き、力強く引き寄せる。変な状況だが、おかげでいくらか寒さは凌げた。
「海に感傷的にさせられてるの?」
「なんだそれは」
「リゾットが変なんだもん」
「オレはいつも通りだ」
彼の腕の中で煙を肺に取り込む。白い煙は吐き出したそばから風に消えた。彼のも、わたしのも。フィルターを唇から離した彼が少し息を吸い込むのがわかったから、なにかの言葉が出てくるのを待つ。我々を海と風の音だけが支配していた。
「あの女たちの中にいた時、おまえは普通の女に見えたな」
「……見てたの?」
「まだ予定より早かったからな」
おまえの胸の形は気に入らない、そこのおまえがこっちに来い。
至極ご機嫌な調子のターゲットの男が、なるべく目立たないで女の子たちの後ろの方にいたわたしを呼んだ瞬間。気がつけば彼をスタンドで殺してしまっていた。まだ始めるつもりはなかったのに、胸がどうのと言われて傷ついた顔をした美しい女の子もすぐに同じようにした。 他の女の子たちの悲鳴もすぐに消えていったし、駆け寄る男たちもバタバタと倒れる。喧しい、趣味の悪い音楽だけが立ち尽くすわたしを苛むが、それもすぐにはしゃげた音をたてて、最後には消えた。目を閉じて、わたしを包む波の音に集中した。
あんなに衝動的に行動したのなんてとても久しぶりだった。
「おかげでオレは慌てて下の階へ走った」
「勝手なことをしたねわたし。ごめんなさい」
「冗談だ、実際のところ特に支障はなかった。……隠れて見ていて悪かったな」
そう言いつつ、なにかの慰めみたいにこめかみにキスをもらった。謝るのはわたしだけのはずなのに、彼にも言わせてしまった。
あれは怒りだったのだろうか。そうだとしたらわたしを駆り立てたものは一体なんだろうか。女の子を平気で、使い捨てのティッシュか何かとして扱うあの男に憤りを覚えたのか、モノとして扱われることに甘んじる女の子たちの価値観に同情し、過去の自分を顧みてくだらぬ感傷に浸ったのか。もしくは、その全てへの嫌悪故の怒りか。
名前もわからない大きな感情に支配されたわたしは、床に臥せる彼らの中で、よかったね、とっても羨ましいよと、波の音の中で強く思った。
突然煙が目に沁みて、思わず目を閉じた。ぼんやりとしてる間に短くなってしまったタバコを海へポイと捨てて、隣の男へ体重を委ねて、肩に顔を埋めた。どっちが感傷的なんだか。
吸い殻で海を汚して、彼の服にファンデーションやら口紅が着いてしまうことも構わず、わたしはとても勝手な人間だった。そしてわたしのそういう部分を、いつもこの男には隠せない。
「嫌だな。あなたに見られたのは」
「悪いとは思っているが、見たことに後悔はしていない」
「……実はわたしって女だし、子どもなの」
「おまえはずっと女で子どもだ。寂しがってばかりのな」
それでいいんだ、と最後に続けた彼の背中へ手を伸ばす。欄干から一度身を離した彼もいつの間にかタバコを持ってなかった。一生懸命火をつけたあれら二本も、今では散り散りになって海の中。
子供のように、背の高い男に抱きつこうと手を伸ばせば力強い腕に抱きしめてもらえるが、背中にまわるそれはぎこちないし、わたしの身体をどのように自分の胸に押し付ければいいのかわからないって感じだった。この人はハグが苦手だ。キスもセックスもあんなに余裕たっぷりに上手だというのに、人を抱きしめる自然な流れだけを、この男は知らないのだ。
でもそれがいい。それがざわざわして落ち着く。
この波音のように彼が好きだ。
「男に産まれたら、こんな気持ちにならないのかな?」
「……男だったらおまえを抱かないぞオレは」
真顔でそんなことを言うリゾットに、声を上げて笑ってしまう。わたしの緊張した気分をチョキンとハサミで切られてしまったような気がした。
「えぇー…?わかんないよォ?男に産まれたわたしはマジにセクシーで魅力的で、ノンケのリゾットをその気にさせるかも」
ふざけたことを言って調子良く笑えば、リゾットも呆れたように微笑んで、それはあるかもなだなんて答えた。この人って悪人づらだな。
わたしたちは年齢も性別も好きな音楽も全く違う。しかし群衆型のスタンドを自らの分身としているという奇妙な共通点がある。
不特定多数の人間を脅かするような、なるべく凄惨で派手な現場を作れと指令を受けた時、多勢を一度に相手にすることができるわたしたちが任務に当たるのはとても効率的であった。静かな暗殺もできるけれど、血みどろの現場を作るのも得意だ。
単純に珍しいし、群衆型って中々変わっているのかもしれない。一人一つのはずのものが、わたしたちには自分でも数を把握できないほどに存在する。精神エネルギーの分裂、分散。それがどういう意味を示すのかはわたしにはわからないが、彼の能力を初めて見た時に、何かしらの安心を見つけたことをよく覚えている。
安心。そうか、さっきまでどうしようもない気持ちだったのに、今のわたしは安心している。だけど決してそれは癒しではない。癒しなど、わたしには無用だ。
「変なのはわたしのほうだったね」
「そう感じる」
二人で手すりにもたれて身を寄せて、黒い海を眺めて暫く過ごした。促すように彼が軽く唇にキスをして、身を離して歩き出した。わたしもそんな彼を追う。最後に一目、会場を振り返り、目を開けたままの女の子たちの、血に染まるきめ細やかな肌を見た。
わたしはきっと悲しかったのだろう。なんて身勝手な人間だろう。なんて、自分都合な女だろう。
夜の海風にわたしの身体から熱がどんどん奪われていくことを懸念したリゾットは、どこかから調達してきた毛布でわたしをくるんでボートに乗せた。別に一人で乗れるし、上陸地点でジェラート達が色々と準備して待っててくれるから、少しの間くらい平気なのに。だけどそう思いつつも、リゾットの奇妙な心配は可愛かった。
懐中電灯で照らしたコンパスを頼りに、黒い波をかき分けて進む。エンジンは煩いし、揺れる小さなボートは乗り心地が最悪だった。月だけが照らす暗い海に二人きりってのも、心を脅かされる気がした。それを、特別悪いものに感じなかったけれど。
波の音の中、クラプトンが欲しいと思った。エレキをアコースティックのように弾くあの演奏。そんなのを聴いてしまえば余計に気持ちはざわめくが、それがわたしと、同じボートに乗るこの男の運命かもしれない。
落ちるなよ、なんてまるで子供を注意するように言われて笑った。落ちるなら二人で、海の底まで行きたいな。こっそりそう考えた。
題名:徒野さま