×
BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
- ナノ -
ナイトメア・インベーダー


ぽたり、ぽたり


そんな音で目を覚ました。いつのまにか眠っていたらしいぼくはソファーから起き上がると、どうしてか胸にざわざわとしたものを覚えた。執務に使っている部屋から出ると、ドアの前には赤い絨毯に落ちる、何かのシミがあった。部屋の前を横切るように点々とあるシミを辿ってみると、廊下の奥に見慣れた後ろ姿を見つけた。
彼女だった。もう何年もミスタと共に組織を支えてくれている、頼りになる部下。いつも暗い色の服ばかり着ている彼女はどうしてか、子供みたいなデザインの赤いワンピースを着ていた。子供みたい、と頭の中で形容してから思い出す。彼女はぼくより少し年下の、まだ子供と呼んでも齟齬がない年齢ではないかと。
ぺたぺたとゆっくり絨毯を歩く裸足。それが絨毯から離れるたびに、白い足の裏に赤黒い汚れが見えた。そのおかげで、ぼくの目の前から彼女の元にまで続くシミが血液であることに、ようやく気がついた。

いつもきちんと整えられている長い髪が、癖毛をそのままにふわふわと、誘うように揺れている。それをみていると、ぼくは悪夢でもみているんだろうかという気分になった。

廊下の突き当たりを曲がる彼女は、片手に無骨な拳銃を握っていた。彼女のものではない。その後ろ姿を追って角を曲がると、絨毯の上に少し前まで小さな白い手の中にあった拳銃が落ちているのを見た。そこのそばにも、血液が続いている。曲がった先の部屋のドアが少し開いていた。

真っ暗な部屋の中へ廊下の灯りが細く差し込んでいたが、両開きのドアの片側を手のひらで押して開くと、廊下から差し込む明かりが大きく横に広がった。しかし部屋の中はそれでもよく見えない。広いこの館の中、誰からも何にも使われていない部屋だ。カーテンはきっちりと締め切られて、家具には白い埃除けの布が被せられていつまでもやってこない出番を待つ。この棟は殆どの部屋がそうだけれど。
そもそも、普段ぼくが仕事の為にいるこの棟に入れる者は限られているのだ。なぜ彼女はここを選んで、この時間にやって来たのだろうか。それとも、ぼくはまだ夢の中にいるのだろうか。だとしたらこれは悪夢だろうか、それとも幻覚や、何か、もっと別のものなんだろうか。好奇心がぼくをひたすらに突き動かす。

「ナマエ……?」

自分のどこか求めるような声色に静かに驚く。彼女はどこにいるんだろうか。そう思ったところで、ノズルを捻るような音がぼくの耳に届いた。間髪入れずに、細かい水が大量に流れ落ち、強く叩きつけられる音。シャワーだ。右手の寝室の方に、彼女はいるようだ。
広い部屋を横切って、ベッドの上に服が脱ぎ捨てられた寝室の奥にあるバスルームの扉。迷いなくそのドアノブに手をかけて開け放った。全て、灯りは付けられていなかった。寝室まではかろうじて廊下の灯りが届くが、ここから先は未知であった。

霧のような湯気に満ちたバスルームの奥にある大きなバスタブの中、彼女はいた。ぼくに背を向けて縮こまるように座って、そこにシャワーが降り注ぐ。真っ暗な部屋の中なのにどうしてか彼女の肌は中に光を孕んでいるかのように艶やかにぼくの瞳には映った。たぶん、生命エネルギーを感じ取るこの力のせいだ。しかしもしもそうじゃあなかったら、何だというのか。やはり幻覚じみた何かに思える。

固唾を飲んで歩み寄る。何か、霊妙めいたものが彼女の濡れた髪や、白いうなじや背中から漂っているのだ。

「ナマエ」

もう一度、たしかに名前を呼ぶ。名前を呼ばなければ正体を暴けないような気がしたから。だけどそれが彼女の本名であるのかどうかぼくは知らない。だから彼女はすぐそばにいるぼくの方に振り向いてくれないのかもしれない。

バスタブのそばに立ち、肩に触れた。右から降り注ぐシャワーのおかげでそこは暖かくなっているようだった。だけど、手を伸ばして顎に触れて振り向かせた彼女の顔の青白さにゾッとするものを覚えた。彼女はその虚な瞳を、ぼくに向けてはいなかった。どこかぼんやりと、意識があるのかないのかわからないような調子でその視線は宙を揺蕩うのであろう。

立ち上がって、ぼくはバスルームの壁にあるスイッチでついに灯りをつけた。マーブルの床に落ちた赤い血液に、同じ色に染まった栓の抜かれているバスタブ、彼女の身体、ぼくの手のひら。
シャワーのノズルを捻って水を止めると、バスルームを静寂が支配した。ぼくは服を着たままにバスタブの縁を跨ぎ、隅に縮こまる彼女の両肩を掴みこちらを向かせる。
眼は少し開いていたが、もうほとんど意識はないように思えた。肩や、腹にある傷から止めどなく血液が溢れている。何も考えられなかった。ただぼくは静かにその患部に触れて、速やかに彼女の身体を治療した。思えばこの子の身体を治すのは初めてである。

「ジョルノ」

血の気の引いた青い唇がぼくを小さな声で呼ぶ。死ななくて良かったと、腹の底から思った。彼女の声がうまく聞こえないくらいに、自分の心臓が果てしなくうるさい。彼女が死んでしまったら自分はどうなっていたのだろうかと考えてみると、恐ろしい気分になった。それこそ悪夢じゃあないか。

「キスして」

その言葉に迷うことなく口付けると、彼女は弱々しく唇と舌で応えてくれた。ぼくらはこのとき初めて、お互いの身体にまともに触れた。裸の、体温の低い痩せた身体を抱きしめた。はやくこの肉体に熱を戻してやらねばならない。傷は塞ぎ血液は戻したが、安静に休息を取らせねばならないだろう。
自分の着ていたシャツを彼女に被せると大きく揺らさぬように、ぐったりした身体をそっと抱き上げる。痩せてるのに柔らかな肉体であった。

明るい廊下に戻ってきた頃に、彼女は小さくつぶやいた。

「どこにいくの?」
「決まってる。医者を呼ぶのさ」

自分の声色があまりに優しいことに密かに驚いた。執務に使う部屋の奥にある、全然使っていないベッドルームの扉をスタンドで蹴って開く。
彼女を大きなベッドに寝かせて、身体に被せていた濡れたぼくのシャツを取り払う。その上できちんと羽毛布団をかけ、部屋の暖房のスイッチをいれた。

「医者はいやだよ」
「馬鹿を言わないでくれ」

電話をかけに執務室へ戻ろうとすると、ベッドから伸びてきた小さな手がぼくの服を掴む。
振り返ると目があった。彼女はぼんやりとぼくを見つめているくせに、その力は強い。ナマエがゆったりと身体を起こした。所々血に染まった白い身体を寝室の明かりの下、惜しげもなくぼくの眼前に晒す。ポケットにあった万年筆で塞いだ脇腹の傷口には未だ穴埋めの繋ぎ目が見える。

ベッド横の低いチェストに置かれた電話の受話器を手に取り耳に当てたところで、起き上がった彼女は膝立ちになりぼくのダイヤルボタンを押そうとする腕を弱々しく掴んだ。

「誰も呼ばないで。一緒にいて」
「……」
「おねがい」

黙ってじっと見つめあっていると、彼女はやはりいやに霊妙な空気を醸し出して、ぼくをまたさっきみたいにぼうっとした気分にさせた。これがやっぱりぼく一人の頭の中で起こっている夢なのではと、そう思わせるほどに。

「何があったんだ」
「何も」

特に危険な仕事があったわけでもない。そもそも、彼女の能力的にミスタのような仕事を受け持たせることはない。だからこそ、彼女の手にしていた無骨な拳銃の口径と、彼女の身体にポッカリ開いていた穴や、体内に残されていた弾丸の大きさが合わないことが、ぼくには唯一の救いに思われた。

薄暗い気持ちに染まっていたぼくは彼女の肩を掴む。力を込めて、一糸纏わぬ彼女の身体をベッドへもう一度沈めた。そこに跨がり、先ほどよりも少し熱を取り戻した頬に、人差し指の背で触れた。投げ出された片手を強く包み込むように握る。

「きみが生きてさえいればいいんだぼくは。いっそこの部屋にずっと閉じ込めてしまったって……。ねぇ、そう思わない?」
「……それもいやだな」
「きみが嫌でも、ぼくにはそれができる」
「そんなつまんないこと、しないくせに」

当たり前のようにナマエはそう言って、空いた手がぼくの髪を撫でつけた。
彼女をここまで運んでいる時に込み上げた、どうしようもなく強く抱きしめたい衝動を抑えるために、何度か彼女の髪に鼻先を埋めたり、頬を寄せたりした。だからぼくの髪も少し濡れていた。

ゆったりとしたその落ち着いた手付きに、彼女に何を言ったって無駄だと気が付く。目を閉じてため息をついて、彼女の隣にごろりと仰向けに横になった。
なんだかすごく、ぼくはこの悪夢のような時間に取り憑かれて、そして悪酔いしてしまっていた。

「あなたの万年筆の、インクが血になったのかも」
「……意識があったの?」
「万年筆を傷口に刺してたのは覚えてる。痛かったわ」

隣でもぞりとうつ伏せに身体を起こし、ぼくの顔を覗き込む彼女と目が合う。淡く笑っていた。人の気も知らずに、この子は。

「好きだよジョルノ」
「……こんな時に言うか?」
「じゃあどんな時に言うの?」
「さぁね……二人きりで食事をした時とか?」
「裸を見られちゃってる人と、そんな改まったところで言わなきゃいけないの?それってあなたの嫌いな無駄ってやつじゃあないの」
「ぼくから言いたかったんだよ」

ぼくの投げやりな返事に少し黙ったと思ったら、彼女はすぐに嬉しそうに笑って、甘えるようにキスをしてくる。顔色がだんだんと良くなって、身体の熱を取り戻してゆく様子にほっとしていた。自分の身体の力が抜けてゆく。ぼくはそう、とても疲れて、だから執務室で眠っていたんだ。それこそ悪夢を見たっておかしくないほどに。そんなことも忘れていた。
キスをしながらぼくの胸の上にのっかった彼女の、柔らかな胸から伝わる心音を、この身に感じた。

「もうこんなのは二度とゴメンだ」
「ごめんね。どうしたら許してくれる?」
「高くつきますよ。ぼくは執念深いんだ」
「なんでもあげるわ。欲深いドン・パッショーネの、仰せのままに」

そう、執念深いというよりは、ぼくは欲深い。彼女の全てをぺろりと飲み込んでしまいたい。そういう巨大で薄汚い気持ちが恐ろしくて、ずっと、ぼくは彼女に触れることもしなかった。しかしもう手遅れのようだ。彼女もそれに気がついている。

身体を無理に起こすと、彼女が落っこちそうになるので腕で支えた。裸の彼女を脚の間にいれてベッドに座って、ぼくたちは向かい合っていた。

「きみの……ラストネームをもらってしまおうかな」
「悪魔みたいね」

悪魔なんて可愛いものだ。ぼくの世界に否応無しに入り込み、歌うように魅了するこのセイレーンみたいな子に比べれば。

「いいわ、契約しましょう。わたしの大切なラストネームと、わたしの薬指を、あなた様だけに」
「もう決して返さないよ。覚悟することだな」

視線をその瞳に注ぎながら手の甲に口付けると、ナマエはぱちぱちとまつげを蝶みたいに瞬かせた。いつもと真逆のそれも悪くなかった。ぼくたちの本質は上司と部下ではなく、化け物同士でもなく、ただ単純に男と女なのだから。

「見返りはたっぷり、きみだけにあげるよ」

願わくばこの悪夢が永遠に続かんことを。