デブリはたまた流星物質
よく知った声による騒音で目が覚めた。隣が寂しいベッドからなんとか重たい身体を起こして、部屋の中声の主を見つめる。頭痛がするのは眠りすぎたせいか、はたまたオレを大騒ぎで呼ぶ、先にベッドから抜け出していた彼女の声のせいなのかわからなかった。
「リゾット、ねこ、ねこが入ってきたの!」
まるで腰を抜かしたみたいに地べたに尻餅をついた彼女が指差す方を見遣る。床の上に放って置かれた、彼女のお気に入りのセーターの上にまだ子供の猫がいた。猫は腹を出してごろごろと窓から差し込む朝日の中で転がり、彼女を誘っているように見えた。
部屋の奥には開け放たれた窓と風に穏やかに揺らされるカーテン。ああ、屋根から入ってきたのかと、そう思いながら立ち上がり彼女のそばまで裸足で歩み寄った。
彼女の様子を伺いたくてすぐ隣に屈んでみると、珍しく自分からオレの胸に手を触れ、それを首に回し、甘えるようなそぶりを見せた。
「こ、こわいわ」
「アレルギーか何かなのか?」
「知らない……わたし猫や犬に触ったことないの」
オレを眠りから引っ張り上げたさっきの叫び声は初めて聞くような種類のものだった。いつもだったら彼女は何かに怯えたりしても、大袈裟な態度を取ることをしない。そういう時に彼女の腹の中でどんなことが起こっているのかは知らないが、自分の気持ちの揺れを隠すことに長けた女だ。座り込んだ彼女の腰に腕を回しながらそう考える。
「リゾット、なんとかしてよ」
「メタリカで殺すか?」
「ふざけんな!わたしのロエベのセーターはどうなるってのよ!?」
食ってかかってきた彼女は猫の命の心配をしているわけではないらしい。
生命の存続の危機に晒されていることなどお構いなしな猫が気持ちよさそうに横になるセーターは、オレが昨日の晩に彼女から乱暴に脱がせて放ったものであった。あまり優しくできなかったと、ぐったり腕の中で眠る彼女をみて反省した。ソファーで久しぶりに会えた小さく柔らかな身体を膝に乗っけて可愛がっていたら、どうしようもない劣情が襲ってきたのだ。
ほんとうならば、今にも震え出しそうなほどに子猫を怖がる奇妙な彼女を暫く見物していたいところだが、どうやらセーターを奪われた責任はオレにあるらしい。しがみついてくる手を掴んでどけると、立ち上がって床にいる猫へと歩み寄った。
オレが側へ来ると、腹を出して寝っ転がっていた猫はぐるりと身体を回し、じっと二つのビー玉みたいな眼球でこちらを見つめた。威嚇している様子はないが、つんとして、おまえには絶対に腹を撫でさせてやらんぞという強い意思表示があった。
振り向いてみると彼女はいつの間にかかなり後退しており、側面に背中を預けたベッドから枕を引き摺り下ろして抱きしめていた。思わずその神妙な顔に笑いそうになるが、どうにか我慢して呼びかける。
「なぁおい、おまえに触ってもらわないと気が済まないらしいぞ」
「お断りよ!こわいもん!」
「そう言うな。ひと撫ででもしてやれば出ていくかもしれない」
「……ほんとう?」
彼女は訝しげな表情を向けつつも、慎重に立ち上がった。セーターのすぐそばに膝をついているオレの後ろに彼女はやはり同じく裸足でやってきて、猫から隠れるようにオレの背中に触れて様子を窺う。
実際オレは結構楽しんでいた。仕事を淡々とこなす頼りになる部下なくせに、小さな子猫に怖がって心底怯えた様子でオレの背中にひっつく彼女は愉快だ。こんな様子を見せるのは初めてであった。
「ねぇ、撫でるのってどうやるの?」
「いつもオレがやってるだろう。こうするんだ」
床に膝をついたまま振り向いて、彼女の頭を猫にする気分で撫でた。寝癖のついたままの柔らかい髪がまたさらに乱れたが、彼女は目を細めておぼろげな表情でオレを見つめる。思わず唇にキスをして、あわよくばこの床に組み敷いてしまおうかと思った。しかしやはりこいつは、そうそう思惑通りに動く女ではなかった。
「ちょっと!あなたの後ろに猫がいるのよ。非常事態になにやってるの」
唇を離した彼女に咎めるような調子で肩を殴られた。力は強くないが、いつも地味に痛みが伴うところを的確に殴ってくる。攻撃を受けた場所をさすりながら彼女を促すことにした。
「……撫でてみろ。きっとこいつはおまえを噛まない」
そう言うと腕の中にいる彼女はオレの肩越しに一度猫を覗いて、ごくりと生唾を飲んだ。オレが横に退くと彼女がそっと手を伸ばす。すると猫もまたごろりと彼女のカシミヤのセーターの上で腹を出した。彼女の指先が猫の腹の柔らかな毛にそっと埋まる。直後に、ぴょんと振り向いた彼女はびっくりした顔を隣に座り込むオレに向けた。
「ふわふわだわ!ねぇリゾット、こんなに痩せてるのに」
煌めいた、子供じみた目に少し笑ってしまう。
猫はやはり彼女に腹を触られることを期待していたようで、ゴロゴロと喉を鳴らして身体を伸ばした。彼女は今度は手のひら全体でそっと猫の腹を撫でる。そんなのをそばに歩み寄って見下ろした。
じゃれついてきた淡いピンク色の肉球に手の甲を触られると彼女がびくりと肩を揺らしたが、オレが彼女の肩を抱いて、大丈夫だと知らせてやれば彼女も指先でその肉球を触って戯れ始めた。
「面白い。飼おうかな」
「やめておけ。簡単に拾うな」
「なによ。人のこと言えた口?」
ふざけた悪態をついてくる、そんな彼女の横顔を眺めているのは悪くなかった。なぜこの少女が今まで猫を触る機会がなかったのかわからないが、自分の過去について語りたがらない彼女の時折見せるわがままや奇妙な好奇心、気の緩んだときに晴れやかに現れる喜怒哀楽全てを、オレは愛した。
猫を大変お気に召したらしい彼女はそのうちゴロゴロと甘える小さな獣を胸に抱え、自分のベッドへと運んで座った。彼女の好きな色で彩られた指先が熱心に、剥き出しの白い膝にゆったりと身を伸ばす猫の耳の後ろを撫でてやっている。どうやらオレとロエベのセーターとやらの存在は既に忘れ去られているらしい。
しばらくそれを、彼女が呟くように話し出すまで黙って眺めていた。
「……わたしリゾットの気持ちが少しわかったわ」
「どういうことだ?」
「悪くないね。痩せた猫を撫でるのって」
そう言いながら、彼女は伏せていたまつげを持ち上げて、所在なく立ち上がったオレを見つめた。その視線に誘われるように彼女の元へ歩み寄って、隣に座る。頭を撫でて、首から背中を伝って撫でた。出会った頃にはもっと骨が浮き出ていたが、今は程よく女特有の柔らかな感触になっている。
「おまえを猫に取られたな」
「拗ねないでよ。あなたがこれから新しい猫を拾っても、わたしは我慢するよ」
「冗談言うな。おまえらで手一杯だ」
肩を抱き寄せてこめかみのあたりに口付ける。彼女の全身から柔らかな空気を感じた。そういえば、せっかく珍しく二人で朝を迎えたというのにまだ起きてから一度もまともに彼女を抱きしめていない。と、考えたところで彼女から唇にキスをもらった。猫が邪魔でシーツへ組み敷けないことが不服だ。
彼女はキスをしながら、伸ばした手でオレの髪を撫でた。野良猫を触りまくった手で髪を撫でるなと言いたい。しかし彼女の覚えたばかりの手のひらでの愛撫はとても心地よかった。唇を離すと唇同士がまた触れそうな距離で、彼女はしゃべる。
「……この子にご飯をあげよう。お腹いっぱいってのを、もしかしたらまだ知らないかもしれない」
そう話す彼女はなぜだかほんのりと瞳を濡らしていた。そんな彼女を見つめるのはオレと、膝から不思議そうに見上げる痩せた猫だけだった。
腹を満たした猫を窓から外に出してみたら、案外振り返りもせずにアパートの屋根の上を歩いて去った。あまりにあっけない。長い尻尾が揺れる後ろ姿をぼんやり眺めていると、隣にいる彼女が自分から身を寄せてきた。心配するなと言っているみたいにオレの手を握り、キスをして、また部屋には2人だけになった。色っぽい態度でバスルームに誘う彼女は窓からも玄関からも、とにかく今は出て行く気がないようだった。