あたしを運ぶ色
エナメルの剥げた爪を見つめていた。根元は少し伸びて自爪の色が見えてきていたし、これを今すぐに整えられない事があたしのひしゃげそうになりながらギリギリで保っている精神を、ゆっくりと押しつぶしてゆくような気がした。
いつもの完璧な爪が欲しい。早くお風呂に入りたい。服を着替えて、目一杯おしゃれして、買い物をしたい。自分ひとりの時間がほしい。
母さんに会いたい。
一つ欲を頭の中で言語化してしまうともう止めることはできなかった。このトイレもお風呂もない、亀の中だなんて変な部屋から抜け出したい。そばにいる男たちは本気であたしを守ってくれているのだけれど、そこにあたしの感情は無い。あたしという人間を守りたいなどと考えている者はいない。
あたしはなんのために今ここにいるのだろう。顔も見た事がない父親に会って、それからどうなるというのだ。全て元に戻ることなどできない気がする。先が怖くて、悲しくて仕方がなかった。
この焦りにも似た、苛立ちにも似た、どうしようもない大きな感情にひたすら深く苛まれて、あたしはすぐにでもどうにかなってしまいそうだった。
「トリッシュ。疲れた?」
ソファーの上、肘掛に置いた腕に伏せていた顔を気怠く上げてみる。このチーム唯一の女の子が立っていた。この人と二人きりになるのは初めてで、こんな風にじっと視線を合わせることに違和感を覚える。ブチャラティたちはいつの間にか亀の中からどこかへ出払っていた。
彼女が微笑んでいた。出会ってからというもの、他の男たちと同じように彼女も堅気じゃあないことがすぐにわかるような冷たい顔つきをしているところしか見たことがなかった。
そんな彼女が部屋の床にぺたりと子供みたいに座った。手に持っている小さな瓶を掲げて、ソファーの肘掛に相変わらずもたれているあたしに見せる。
「なによ……マニキュア?」
「うん。この色しかないんだけどね、ちっちゃいリムーバーも持ってるよ」
あぐらをかいて、その間にサテンのポーチを置いていた彼女はマニキュアより一回り大きいくらいの容器に入った除光液と、コットンを一つ取り出した。
「ねえトリッシュ。手を貸してくれる?」
なぜだかその柔らかな口調の言葉に従ってしまった。あたしの手をとった彼女の空気が柔らかい。剥げたネイルはツンとした匂いのする液体が染み込まされたコットンによって、ゆっくりと溶かされ、きれきさっぱりと取り除かれた。
彼女は手を動かしながらよく喋った。あたしの返答のある無しに関わらず、のんびりと流れるバラードのような調子で。
「別にさぁ、ネイルなんてこんな状況で直してもしょうがないけど」
「……」
「きみだって男のために爪を塗るんじゃあないでしょう?」
「……当たり前じゃあないの」
「気が合うね」
視線だけを上げて彼女が笑ってあたしを見つめた。さっきよりも小さな微笑みは嬉しそうに思えた。
繊細な手つきで一つ一つの爪に明るい色のどろっとした液体が塗られてゆく。その様をじっと見下ろしていた。彼女は片膝をたてて、そこにあたしの手を置いている。彼女の剥き出しの膝もあたしの手のひらを握る手もとてもすべすべで、なんだか心地よかった。
そうしてあたしの爪はひとときの完璧を取り戻した。
「ねぇ。あなたはどうしてここにいるの?」
「うーん?話すと長いし、つまんないよ。わたしは今を生きてるの」
今を生きている。その言葉を頭に浮かべた。ずっと忘れてはならない言葉であると思った。
伏せられた睫毛は長い。美しく塗られた爪が乾くのを二人で待った。その間も彼女はあたしの足元に座って、あたしの両手を固定するかのように柔く握っていた。
好きな化粧品や洋服のブランドの話をした。あたしが使っている美容液を教えると、彼女はこの仕事が終わったら絶対に買ってみるといった。そこに迷いはなく、当たり前の調子だった。彼女は今を生きているというよりは、未来を生きていた。
「どうしたら……強くなれるのかしら」
ぽつりと出てきた。くだらない弱音だったのだ。しかし彼女はその時ばかりは微笑まず、しかし冷たい顔つきにもならなかった。そういう顔としばし黙って見つめ合った。
「もう強いでしょう。泣きもしないでここにいるんだよ、きみは」
なにかを授けるように手の甲に口付けてくれた。人の体に触るのは嫌いなのに、彼女だけは嫌ではなかった。この旅が終わったらもう、あたしたちは別れてしまうのだろうか。彼女のような友人が、姉が、恋人が、あたしにはいないのに。
そしてやはり別れはすぐに訪れた。彼女は必ず買うと豪語していたあたしの美容液を知らないままにこの世からいなくなってしまったのだった。
彼女の力の抜けた身体を抱いた時、その指先に塗られたあの色を見た。どうしてか、この爪を誰にも見せたくなくて、ひとときだけ握って隠した。そんなあたしを彼女から引き剥がしたミスタは血が滲むほどに下唇を噛んでいた。瞳孔を開いたままに彼女の眠ってるみたいな穏やかな顔を見つめる、彼の悲愴と憤怒に満ちた横顔をぼんやり見た。ミスタが彼女の名前を呼ぶ声には、彼が他の誰を呼ぶときよりも熱がこもっていた。
ああ、あなたは、この彼と特別な関係だったのね。そう思うと胸の奥が熱くなったり、冷たくなったりを繰り返した。あたしは今こうして生きているのだとわかった。
彼女を抱きしめるミスタの腕の下からだりと垂れる細腕。その指先の、誰のためでもなく彩られた少し剥げ始めている爪だけが、唯一あたしたちを繋いでいた。