1

一瞬だった。

俺が館長室に入ってから一瞬のことだった。
失礼します と無機質な言葉を紡いでドアを閉めた瞬間、見えていた世界が右にぐにゃりと曲がる。
身体が壁に当たるのと館長の尻尾にたたき付けられた痛みが同時に襲い、声にならない声が出る。
歯を食いしばって痛みに呻いていると、その細めた視界の中に見覚えのある人間の足が見えて顔をあげる。



「かん、ちょ」
「相変わらず、シャチは真面目だな。指定した時間にちゃんと来る」

お前はほんと俺の命令に忠実だよ
にっこりと貼付けたような笑みを浮かべて笑う目の前の男に寒気を覚え、無意識に館長から目を逸らしていた。
しかしサカマタにそれは許されず、頬に彼の酷く冷たい手が置かれたかと思うと、ぐいっと強引に顔を引っ張られる。

近付く距離。
触れる吐息。
逸らすことを許さない瞳。
静かな空間にピリピリとした空気が漂い、サカマタは息をすることさえ忘れそうになった。
だが伊佐奈はそんなサカマタに構わず、シャチのそのなめらかな肌に手を滑らせ、掠れて色身を帯びた声で囁く。

「そんな忠実なお前が今日は5分の遅刻だ。俺はお前に今日、何か特別な用事を頼んだっけ?頼んでないよな?ということは、今日は普通にいつも通り来れるはずだろ?」

なぁシャチ、今日お前何してたの

そう言ってにこりと微笑む館長を冷汗をかきながら見つめ、その確信は一体どこから来るのかと悪態をつく。

特別な用事がなくとも俺は忙しい。
館内の書類整理に携わるのは大抵俺だし、滅多なことがない限り幹部達に指示を出すのは俺の仕事だ。
それだけで一杯一杯だというのにその他に館長は俺を館長室へと呼ぶ。
迷惑な話だ。
俺を呼んで暇潰しをするくらいならやることは沢山ある。
しかし館長にそんなことをいうほど俺は馬鹿じゃない。
サカマタは自分の肌をぬるぬると触る彼の手を見つめながら、口を開いた彼の言葉に耳を傾ける。


「今日さ、お前管轄内外の水槽の方をうろついてたみたいじゃないか。それってなに?どうなの?」
「どう…とは」
「だから、」

言葉が途切れたかと思うと彼は俺から手を離して立ち上がり、足を振り上げる。

「っ、ぐ」
「それって俺への裏切りってやつ?」


思い切り鳩尾を蹴られ、サカマタの口からくぐもった声が出る。
目を細めて痛みを堪えながら、今日のことを思いかえす。
今日もいつも通りの仕事を行ったつも……り。
サカマタは頭の回転を止め、今日のある光景を思い出す。

「サカマタっお願い!!」
「あんたが頼りなのよっ」

そう言えば今日、鉄火マキが体調不良だというのでイルカの調教を任せられた。
その時間を作るためにその日までの書類は片付け、指示も会議後の全員が集合した状態で与えた。

だから館長が言う、俺が自分の管轄内外にいたというのは確かだ。
俺は館長に事の弁解の為と口を開く。

「それは私が鉄火マキからイルカの調教を任せられていたので」
「はぁ?…なんで鮪がやらない」
「…彼女の体調が著しく悪く、調教ができない状態にあったので私が代わりを」
「あいつもへばったのか」

伊佐奈はサカマタの言葉を制し、低く冷たい声を吐き出す。
その声の低さにサカマタは背筋がスッと寒くなるのを感じた。

「使えない道具はいらない。だからあいつもいらないな」
「そんなことっ!!」

反射的に声が出て、サカマタはハッと口を噤む。
しかしまずいと思った時にはもう遅い。
伊佐奈の冷酷な瞳がぎろりとサカマタに向く。

「…そんなこと?」

伊佐奈はもう一度サカマタの前にしゃがみ、頬に触れる。

「シャチ、今お前なんて言った?」


抑揚のない言葉。
感情ない表情。
普段と変わらないはずなのに、纏うオーラが違う。
身体はその空気にビクビクと震えるが、声はだせた。

「いらない、など…そんな」
「……」

サカマタは目を閉じながら消え入りそうな声で呟く。

いらないなどというそんな言葉一つで物の命を消してはいけない
貴方はもう今まで行ってきた過ちを再び犯してはいけない
犯してはしまえばもう貴方には、何も残りはしない


サカマタがそうしてジッとしていると先程まであった人の気配がスッと離れる。
目を開けると視界の中に彼はいなかった。
サカマタは先程負った傷を押さえながら、顔を左右に動かして館長を探すと目の端にその姿を捉えた。
何をしているのかと目を細めてよく姿を見ようとすると、そんな暇もなく館長は再びサカマタに近付いてくる。
そして彼はサカマタの背中に廻り込んで腰を落としたかと思うと、いきなりサカマタの腕を後ろに思い切り引っ張った。
ぐぎっと肩から鈍い音を発せられる。
サカマタの口から小さな呻きが漏れ、動けずにいると聞き慣れないものが耳に響く。


がちゃり
金属の音。
目を見開き、腕を動かす。
腕を振るたびにじゃらじゃらと金物がぶつかる音が発せられ、自分が今どういう状態にあるのかを理解する。
目の前の男を見ると、指にサカマタの手首につけた金属を開閉するための金具を引っ掛けて廻していた。
サカマタはなんとかこの金属から逃れようと身体を捻りながら、伊佐奈を見上げる。
目に映る彼の瞳は相変わらず冷たい。

「っ!館長、なに、を」
「猛獣用の特別製。簡単には切れないから無理に逃げだそうとなんかするなよ」

そう言うと伊佐奈は指に引っ掛けていた金具をポケットに入れ、左腕につけた腕時計にちらりと目を向けてサカマタを見下ろす。



「もういいよ。シャチ、お前俺が帰ってくるまで大人しくしてろ」
「…しかしこの後会議が」
「だからいいって。お前はさ、ここで自分の立場ってゆうのを再認識してればいいから」

そういうと伊佐奈はクルリとサカマタに背を向け、カツカツと固い足音を発しながら扉へと足を向ける。
サカマタはその後ろ姿を追い掛けようと重心を前に傾けるが、手首の枷が重々しく鳴るだけでその場から身体が動かない。
伊佐奈の姿が、遠く離れる。

「っ館長!」

瞬間的に叫んだサカマタの声は、虚しくも伊佐奈の館長室を閉める音よって掻き消される。
その声は、少しの間室内にぼんやりと響いたかと思うとすぐに静寂の中に溶け込んでゆっくりとその姿をなくした。



[ 1/2 ]
[prev] [next]



Back


「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -