コート

「シャチ、寒い」

館長が俺を呼んでそう言ったのは、俺が一番忙しい時刻だった。
書類を片付け、ショーの準備をし、魚達の掃除の指導に見回りと沢山の仕事が俺にはあるというのに。
この男には何も仕事がないのか、わざわざ俺が作業をしているスタッフルームにまで足を運んできた。
暇ならば喜んで仕事を分けるのだが、相手は館長。
そんなことをしようものなら彼の機嫌を損ねかねない。


俺はでらめんどくさく思いながらも書類を片付ける手を休めないまま、伊佐奈の言葉に応答する。

「風邪…というものですか?」
「いや、そういうんじゃない」

ただ単に寒い。
それだけらしい。

「館長室の方に暖房機具があるのでは」
「だから、そういうのじゃないって」
「…?」

寒いというのは気温や体全体で感じる温度が適温よりも低い、ということらしいが…。
ペンを動かす手を止め、スタッフルームの質素なソファに座る伊佐奈を見遣る。
寒い時に人間はよく身体をぶるりと震わせ、表情を固くする。
しかしそこにいる館長の出で立ちはそうには見えず、前にある机に足を投げ出して偉そうに座っている。
確かにそういう寒いではないらしい。
…しかし他の『寒い』とは?

「シャチ」


伊佐奈の手が質素な作りのソファを叩き、こっちに来い という無言の圧力がかかる。
この状況で断ることなど出来るはずないだろう。
俺はショーの時間を確認しながらもゆっくりと館長に近づく。

「ほら」

館長はもう一度その布生地を叩き、俺に座ることを促す。
俺もまだ命は惜しい。
失礼します と頭を下げ、少し間を空けて同じ長椅子に腰を降ろした。


この距離が俺と館長のものと同じだとしたら、まだまだ遠いものだ としみじみ考えてみる。
そしてその間をジッと見つめながら館長が話すのを待っていると、いきなりそれが縮んでビクリと身体が揺れた。
無意識に身体がその距離を保とうと動くが、それは館長が俺の腕を掴むことで妨げられる。
我ながら情けないものだが、相手はあの館長だ。
ビクリと身体を震わせてながら館長を見る。


「あの…館、長」
「寒いっていったろ」
「いや…ですがそれは」

言葉を吐き出そうとした口がパクリと閉じる。
館長の肌の暖かさが微かに身に染みる。
目線を下げると彼と目が合う。
それはいつもよりも細められてはいたが、確実に俺を捉らえていた。
彼の声がくぐもって俺の耳に響く。


「寒いっていうのはさ、人肌恋しいってこと。要するにお前と近付くきっかけってやつ」


意味、分かった?
そう言ってにこりと笑う館長に俺はもう何も言えなかった。


コート
(まったく可愛らしい理由ですことっ!)






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