雨音


梅雨の季節。
人々は続く長雨に陰鬱な気持ちを抱きながら、今日もまたそれぞれの日常を過ごす。

そんな中、池袋の町もそれと変わらず、もちろん俺もまたいつもと何も変わらなかった。
いや、変わらないと思っていた。





(あー…馬鹿したべ)

トムは曇り空から落ちる大きな滴を見上げながら、自分の侵したミスに頭を抱える。



『あの、今日よかったら…俺んちで一緒に飲みませんか?』



朝、携帯を見ると少したどたどしい文で彼からの誘いのメールが来ていた。静雄からなんて珍しいなぁと思いつつ、承諾の返信を送ると時間の指定と【準備して待ってます】なんていう文がさも嬉しそうに書かれているもんだから思わず一人で笑ってしまった。
一体こいつはどんな顔してこれを打ったんだろう。

そんなことを考えているうちに約束の時間1時間前になっていて、ちょっと今日は余裕を持って行くかと早めに家を出たのが悪かった。


(傘、持ってくんの忘れた、なんてよ…)

自分の愚かさに自然と深いため息が出る。




迂闊だった。
この季節に傘の存在を忘れていたなんて。
…これからはちゃんと天気予報見てから出掛けるようにしよう。


トムはそう固い決心をして、とりあえず今の対処について考える。


(確か静雄の家ってこの駅から歩いて10分くらいだよな。つーことは走れば5分でいけるか?
…あーくそ、ビニール傘はもういらねーんだけどなぁ)


トムは家の傘立てに入っている、一回しか使われていない何本ものビニール傘を思い出してうんざりする。
あんなにあっても邪魔だが、かといって捨てるにもなんだか気が引ける。まぁ俺が傘を忘れなければこんなことにはなってねぇんだよな。


…約束の時間まであと20分。とりあえずギリギリまで雨の様子見てみるか。


トムはある結論に達し、その時間になるまで一服しとくかとポケットに手を入れた。しかし、その手は結局何も取り出さないまま、外に出ることとなった。


「…トムさん?」


その聞き覚えのある声に顔を上げると、そこに立っていたのはいつものバーテン服を着ていない彼の姿だった。


 ―――――――――― 

「いやぁ、静雄。マジ助かったわ」

トムの苦笑いした顔を横目に静雄は呆れたような困ったような声で呟く。

「俺が酒買いに行ってなかったらどうするつもりだったんすか…」
「ん?…まぁ時間に間に合ったんだからいいべ」
「そういう問題じゃないでしょう」



次から気をつけんべ と本気なのか本気じゃないのか分からない言葉に静雄はため息をつく。


雨音が二人に遮るかのように強くなる。
静雄はトムの顔を一瞥した後、あっ と声を出す。

「…どうした?」
「いや、前もこんな雨の日に二人で傘入ってたことあったよなぁと思って。で、思い出してみたら…」


再会したあの日。
なぜか静雄が警察署の前で立ち尽くしていたあの日。
俺は静雄に傘を差し出した。


家どこよ?そこまで送ってってやんべ


そう言った俺を彼はポカンとした顔で見ていて、そんな昔と何一つ変わらない彼に思わず笑いが込み上げた。
姿形は大きく成長して変われども、他は昔と変わらず同じのままで。
日々変化する世界の中で唯一変わらないものを見た気がしたのを今でも覚えている。


「あーそういえばあの日もこんなんだったな」
「トムさん、中学ん時と全然違うから俺、トムさんの事最初分かんなかったんすよね」
「そうかぁ?静雄は昔と変わってねぇからすぐ分かったけどな」


そう言うと隣の静雄は、むすっとした顔を作る。
「俺だってちゃんと成長してますよ」
「はいはい、そーいう事にしといてやるよ。…あっあれだ、静雄ん家」


俺は納得いかない顔で俺を見る静雄を軽く受け流し、見えてきた彼のアパートを指差す。
あと5分もかからない道程に足が軽くなった気がして、いざ歩きだそうとしたトムだったが、


「…トムさん」
「んー?……っ!?」


静雄の声に振り向くとすぐ目の前には静雄がいた。そしてそれをトムが確認したと同時にその顔がいきなりぐいっと近付き、お互いの唇を合わさる。

そんな突然の出来事にトムが驚いている間、静雄は自らの舌をトムの口内に素早く侵入させ、深く深く口づける。


「……ふ、……んんぅ」

くちゅと雨の音とは違う水音が人気のない路地に艶めかしい声と共に響く。しかし、その音は静雄の耳を犯すだけで周りには雨音で消されて聞こえない。二人の後ろを黒猫が通り、ミャアと小さく鳴くのが聞こえた。

しばらくそのままだった二人だがトムは限界が来たらしく、静雄の服の裾をギュウッと掴んだ。それに気が付いた静雄はゆっくりとトムから離れる。息を切らしたトムは潤んだ瞳で静雄を見上げた。

「っはぁっは、お前、いきなり何…」
「俺だって、もう大人なんすから」

静雄はトムの言葉を遮って言葉を発する。

「トムさんに欲情するのなんて当たり前ですよ」
「なっ、おま…」
「だから、」


(覚悟しといてくださいね、トム先輩)


トムの耳元でそう呟いた静雄は じゃ俺、先帰ってますね と傘を俺に持たせて走っていく。


(…いつの間にあんな生意気聞くようになったんだ……)
トムは先程合わさった唇に指で触れて顔を赤く染めながら、彼のアパートへと歩きだした。



雨音
(その音は、昔よりも大きな君の存在に似ている)



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