『静雄』

蕩けるような優しい声音が彼の唇から俺の名を紡ぐ。髪に触れる指先、ふんわりと香る香水の匂い、それは酷く俺を安心させ、それと同時に心地好さを感じさせてくれる。そんな、瞼を開けた先の幸せを瞳に夢描き、俺はゆっくりと目を開けた。



――――――――


「―――…っ」

さっきまで明るかった空が夕闇に彩られ、ろくに掃除もしていない俺の部屋を包んだのに気が付いたのは少し前のことだった。

どうやら俺はあの後、家に帰るとすぐにベッドへダイブしたままそれから一度も起き上がらなかったらしい。額に手をやればそこには不自然なへこみが大きく存在を主張し、腰は変な格好で寝たせいか少し痛かった。俺は瞼に添えていた右手を右にずらして右腕に顔を押し付け、一度は起き上がった身体を再び背中からベッドに沈めた。何かが溢れ出しそうになるのを堪えようと強く唇を噛み締めれば、舌先に微かな鉄の味が転がる。





幸せな、夢を見た。
夢の中には貴方がいて、俺が聞いたこともないような優しい声で俺の名前を呼んでいた。
そうして彼は両手を広げて俺を抱きしめ、指輪の沢山付いてごつごつした、それでいて温かな掌で俺の頭を撫でてくれていた。嬉しさ、というよりも、身体を全部預けたくなる安心感を感じるほどその腕は逞しかった。

だからずっと、この時間が続けばいいと思ってしまった。そうしてこのままこの温かさが傍にいてくれたらと思ってしまった。…だけど、



それがどんなに願っても叶わない夢だと、俺自身が一番よく知っていた。それゆえなのか、夢の中で貴方の顔を見ようにも瞼は開かず、最後に開くことは出来たもののその時には既に瞳は現実を直視していた。

分かっている、自分が彼とそういう関係になることが出来るわけがないと、分かり過ぎるほど分かっているのだ。


それなのに。
完全に夢潰えた俺にそんな夢見させるような、そんなくだらない、

(そんなくだらない、貴方との幸せがそこにはあったんだ)


(夢も見たくなるくらいの幸せが、)


「…準備、しなくちゃな」



自身の重い身体に鞭打ち、俺はベッドから起き上がる。仕事を辞めたら、俺にはこの池袋という街にいなくちゃいけない理由がなくなる。ずっといる街だからちょっとは未練、というか物悲しい気がしないこともないけど、


(ここにいたら、貴方に必ず会わないという確証はどこにもない)


だって彼はここを知っている訳で、俺の携帯の番号も知っている訳で


(…あ、そうだ。携帯の番号も変えなきゃな)



俺はポケットに手を突っ込んで目当ての物を探し出してそれを開く。そして待受の端に表示された着信履歴に目を見張る。


(トム、さん…?)


それは全て彼からのものだった。始めはは5分置きにきていたものが、少し前のになると数秒置きぐらいに時間を詰めてかかってきていた。
手が…いや違う、携帯が震える。表示される名を見る前にと俺は携帯の蓋を勢いよくバチンと閉める。


もう、その名前さえ見ることはないと思った。
それを覚悟して今日社長に辞表を出しに行ったのに、俺の心はどうして。


「…っふ……く」


(こんなに嬉しさと愛おしさで溢れているの)


「しず、おッ!」


玄関の外から彼の息切れた掠れた叫び声が聞こえる。それから再び掌の中からバイブ音。ドンドンと扉が叩かれる音と共に再び俺の名を呼ぶ声が続く。俺は嗚咽を漏らさぬように蹲り、両手で震える携帯を握り締める。規則的に振動し、光を発する電子機器はきしりと小さく軋む。


「静雄、いるんだろ!?
早く出ろ!!お願いだから出てきてくれよ…ッ!!」


彼のドアを叩く手が一度大きく叩いた後はたと止まり、それの代わりにズルズルと滑るような音が上から下へ落ちていく。


「なぁ、静雄…お願いだから」


コツンと手とは違う重みのある音が室内にまで響く。俺は唇を噛み締め、立ち上がる。もう喉から嗚咽は出ない。その枯れて渇いた喉の奥から声を振り絞る。

「トム、さん」

最後になるだろう彼の名前を、呟くために。


ハッと息を呑む音。彼のアルト声が、しずお…と俺の名前を呟き、音を発する。
それになにも答えずにいると彼は俺に縋るような、そんな弱々しい声で再び俺を呼ぼうと掠れた息を吸う音を出した。俺はそれに被せるように、自分も言葉を吐き出すための息を吸う。

「し、ず…」
「トムさん、今まで…ありがとうございました。…迷惑かけてばかりの使えない後輩ですみません。…でも、もう……トムさんの前には現れないので、許してください」
室内の方から玄関の扉にしゃがみ込み、激しい吐息を感じる下方の方に右の掌を寄せてその甲に額を乗せた。
耳元で聞こえる俺を引き留める制止の声に一度目を閉じ、震えた声で最後の言葉を紡ぎ出す。


「さようなら、トムさん…」


(俺は貴方が好きでした)


ピピーと携帯の電源が切れる音。俺はボタンから手を離して振動しなくなったそれを乱暴にポケットへ捩込む。
そして後ろから聞こえる乱暴な音から遠ざかるようにしてベランダへと足を踏み出す。吹き荒れる風と激しい豪雨の中、俺はベランダの縁に手を付けて身を乗り出し、足をかけるとそのまま重力に従って地面に向かう。
足に張り付く草を感じたのと上方からガタガタと重々しい音がしたのはほぼ同時。俺はそれに目をやらず、そのまま駆け出した。

目元からこぼれ落ちるそれは、身体を叩きつける雨と混じって消えてなくなった。


帰れない
(もう後ろを振り返ることはない)
(貴方の笑顔を、この目に焼き付けることさえも)




 
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