貴方の残像に溺れて融解
※捏造
薄暗い部屋。
水に囲まれた空間。
大理石で出来た床。
仕切られた透明の壁。
その奥からコポコポと、空気が水を通過する音。
その部屋には、ただそれしかなかった。
否、それ以上のものは必要なかった。
サカマタはその空間の中で一人、目の前の大きな水槽を見つめていた。サカマタの視線の先には20mほどの鯨が力なく泳いでいる姿がある。
「…館、長」
サカマタの小さな呟きと一緒に、その手にある入場者総員数を提示した紙がくしゃりと潰れた。サカマタの声が聞こえたのだろう。透明なガラスの奥にいる鯨と目があう。サカマタにはその目が、微かに潤んでいるように見えた。
その鯨はサカマタにゆっくり近付くと、低い消えそうな声で人の言葉を紡いだ。
「サカマタ、俺はこんな姿で生きてるのが辛いよ」
彼の声はか細く弱々しかった。生きることを、人間になることを、諦めたような口ぶりだった。サカマタは目の前の大きな鯨に手を延ばす。サカマタが腕を動かすのと同時にゴポリと水が動いた。
目の前の鯨はただそれを黙って見ていた。あともう少しで届く。
しかし届きそうだというところで手が見えない壁にスッと当たり、拒まれる。その壁に爪を立てると、甲高い悲鳴のような耳障りな音が小さく響いた。
貴方に触れたい。
貴方の傍にいたい。
貴方のその悲しげな目から零れそうなそれを拭ってあげたい。
けれどそれは叶わない。
まだ届かない。
貴方の望みが叶うことを俺はまだ何もしていない。
サカマタは透明な壁から手を離し、鯨の形をした人間だけを見る。
「私が、必ずや貴方を元の姿に」
そう、俺は忠誠を誓った。必ず貴方を人間に戻すと俺は約束した。そうしたら彼は目を細めて嬉しそうに鳴いた。
「…あぁ。よろしくな」
貴方のその笑顔はけして、偽りなどではなかったはずなのに。
――――――――――
薄暗い部屋。
水に囲まれた空間。
大理石で出来た床。
仕切られた透明の壁。
その奥からコポコポと、空気が水を通過する音。
あの時と変わらない風景。しかし、今はけしてそれだけしかない訳ではなかった。
彼が仕事をする机。
彼が座る椅子。
彼が睡眠をとるための寝台。
彼が少しずつ人の姿を取り戻すことにより、昔よりも人間らしいものが増えた。
しかし、それと同時に彼が犯す過ちの数も増えていく。
ズズ、と彼の白いマントが尻尾の形に変化し、今日もまた、俺達の仲間は彼によって殺された。仲間の赤い血が水の中でゆらゆらと漂うのを目で追うと、知らぬ間に消えてなくなってしまっていた。
彼はマントの形状を元に戻すとサカマタの方を振り返って笑う。
これは、そう。
感情のない表面だけの笑顔。
「俺は早く人間に戻りたいんだ。…シャチ、俺が何を言いたいか、お前なら分かるよな」
「…はい」
嗚呼、あの頃の優しい貴方はどこへいったんだろう。貴方はもうあの水槽から出ることが出来て、俺の手の届く場所にいるのに。
貴方はあの頃よりもこんなに近くにいるのに、
今俺が貴方との距離を遠く感じるのは、
何故?
貴方の残像に溺れて融解(この胸に疼くこの想いは、今でも愛だと言うのでしょうか)
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Title:水葬
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