死に向かって生きる


羞恥を感じるようになったのはいつからだろう
自分が幼少時代の頃、裸体で歩いていても別段気にすることはなかった




偽言を平気な顔で口に出せるようになったのはいつからだろう
世界が汚いのを知らなかった無垢な幼子では人を騙す術を知る必要がなかった




羨望を持って人を妬むようになったのはいつからだろう
いつだって自分と他を比べて自分を優位な位置に立たせたがった




嫌悪を抱いてその相手から遠ざかるようになったのはいつからだろう
誰彼構わず周りを巻き込んで遊んでいたのは遠い昔の話




孤独を人に悟られないように自分の気持ちを隠し始めたのはいつからだろう
この瞳から涙が溢れても、知らない振りをしたまま前だけを見た






俺はこの何年かを生きていく中で色んな思いを学んできた。人間は知らない間に名前の知らない感情を自分の物にする。そして知らない間にその名前を知っている。

だけどこんな思い、結局全部持っていたところで何の意味も成さない。
だって、俺達はいつか寿命になったら死ぬんだ。
死んだら手に入れた物はその先に持ってなどいけないんだ。
死んだら俺達は形もなくなって、結局最後には守っていた自分自身も消えてしまうというのに、何のためにこんな感情を持ってなきゃならない?





「…お前はいつも変なことばかり言うが…詩人にでもなりたいんじゃろ」
「まさか。俺は水族館の館長で充分だ。…それより兎はさ、どう思う?くだらない人間の感情について」


伊佐奈はにこりと笑ってオフィスチェアに背を預け、数枚の書類が載ったデスクにドンと長い足を乗せた。
それによって生じた風で書類の紙がふわりとはためき、音を立てることなく静かに床へ落ちる。
この書類はさっきサカマタという名のシャチがこの人でなし鯨に持ってきたものだ。
…あの鯱には同情してもしきれんな。
椎名は心中で今頃館内を駆け巡っているだろうサカマタに情けの念を送る。

何の反応もしない椎名に苛立ったのか、伊佐奈はデスクの上の右足を左足に乗せて足を組む。
そして足の膝の辺りに手を置いて中指でリズムを刻むようにそこを叩き、椎名の返答を急かすように口を開く。

「なぁ、椎名。聞いてるのか?」
「聞いとる。が、どうも思わん」

それじゃあつまらないだろ と溜息をつかれるが自分にはどうしようもない。自分の感情などさして気にしたこともない。わしは自分で感じたままに動くだけだ。
羞恥やら偽言なんてそんな言葉の存在すら知らない。



そう言えば、この水族館の主は一瞬呆けた表情を作り、眉をあげて目を細めた。

「…お前は……なんというか幸せ者だな」
「なにがいいたいんじゃ」
「別に」

何にもないよ、と言葉を続けた伊佐奈はデスクから足を下ろして立ち上がる。
足元でぐしゃりとなるのは先程落ちた紙だろう。
あのシャチ、ほんとに苦労するな
しかしその苦労を増やす張本人は少しもそれを気にする様子もなく、むしろ分かってやっているのかと思うほどその紙を無残な姿へ変えながら部屋の周りを囲うガラスへと近付く。
椎名はその後ろ姿を無言でジッと見つめる。


「俺はこの姿になってから色んなことを知ったよ」


ガラスが光を反射して伊佐奈の姿を映す。
水の中にその姿があるかのように見えるそれは何色にも染まらず、ただ人の形だけを映していた。



「鯨は夜、深い睡眠を取ることが出来ないと知った。
ここから空を見て、今まで知らなかった星の場所を知った。
ここに来る餓鬼達を見て、子供は知らない間に成長して大人になると知った。
そして色んな命を見て…いつか俺達の命は必ず消えてなくなるもんだと知った。例外はない。」


伊佐奈はそこまで言うとマントを翻してクルリと廻る。
ぱちりと目が合う。


「当たり前のことなのにさ、一人になるとこんなことばかり考えるんだ。笑えるよな。」



そんな顔しとるお前など笑えんわ
思わず目を逸らし、床に落ちていた書類の一枚に目線を流す。そこには綺麗な筆跡でつらつらと文字が並べられていた。その字がこの鯨のものなのか、あの苦労鯱のものなのかは分からないが、どっちにしろ整った文字だった。カツリ、と床を踏みしめる音が椎名に近付く。


「だけど色んな物を実感し、理解するに従って分からないことも出てきた」



自分に語る思い出が出来たのはいつからなのか
隠せないこの思いを抱いたのはいつからなのか
自分が生きている今の時間はもう二度と来ないことを知ったのはいつからなのか
そして、こんな風に自分に知らないものがあると知ったのはいつからなのか



「結局全部この世界に置いて俺は消えていくから意味のない疑問ばかりなんだけどさ。こうやって考え始めたのは全部お前に会ってからのもんなんだよ。お前にこの抱いた感情のせいなんだ」


そうしたら、最後には置いてなくなるはずのこれを、どうすればいいか分からなくなってた



「…それがわしのせいだって言いたいんか?」
「そうは言ってない。ただ、さ」



カツリ
すぐ近くで靴音が止まり、その足が椎名が座っているソファの前のテーブルの上に動く。
そして椎名の目の前に立つと足に力を入れてしゃがみ込む。テーブルは伊佐奈の全体重を乗せても一つの悲鳴もあげない。ただそこに、表情も変えずに存在している。伊佐奈のヘルメットの空気孔からスーッと息を吸う音が聞こえた。



「答えてくれ椎名。俺はこれを捨てればいいのか?それともまだこれは必要なのか?いつか消える命なのにこんなの持ってて意味はあるのか?俺がこれから生きていくために邪魔にはならないだろうか?」


伊佐奈の瞳が微かに揺らぐ。だがジッとそれは椎名から目を逸らさなかった。真っ直ぐ前を見て椎名の言葉を待っていた。椎名は伊佐奈と合わせていた目を下に向け、頭をがしがし、と掻く。

「わしにもそれは全部分からんが…とりあえずお前はそのままでえぇ。」


室内に声が響いて消える。伊佐奈の目がパチパチと瞬き、目の前の兎男を捉える。椎名はそんな伊佐奈の手に自分の右手を重ねる。そして体温が感じられない、酷くその冷たい手をギュッと握る。


「だから今は持っておけばえぇじゃろ。抱えきれる分だけ持ってりゃあいい。…それがあるから今のお前があるんじゃ。なら今はまだ持ってればえぇ。」


伊佐奈の視線が椎名の顔から彼の手を掴む茶色の手袋へと移る。伏せたその瞳が微かながらも綺麗だとは思ったなんて、死んでも言わん。そんな椎名の心情を知ってか知らずか、伊佐奈は次第に目を細くして、前を向いた時には優しげ笑っていた。どきり、と胸の奥で音がする。



「ん、そうだな。そうするよ」


だって、
その時のお前の顔は、今まで見た中で一番人間らしかったから




死に向かって生きる
(みんな思い思いに生きてるんだ)


 ―――――――――― 

Title:レイラの初恋


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