深き蒼海より誓言


※水族館にくる前の話
※伊佐奈の下半身と左顔半分は呪いを受けたまま





その深海は、暗鬱にもなりそうなくらいに暗澹とした場所だった。

そこに魚はいない、あるのはただ果てしなく続く無音。たまに自身の薄い唇から水泡(みなわ)が溢れる音がするが、それはただ自分自身の孤独さを確認するためだけにあるようなものだった。

なにもない、無。
それは汚濁した世界からの離脱のようで心地好く感じる分、自分というただ唯一の存在を否定されているようでもあり心苦しかった。しかしだからといって自分にはこの海以外に行く宛てもない。昔のように地に足をつけた生活も、この異質な下半身のままでは到底叶わない。選択肢などあるようで何も残されてはいないのだ。下手に動いても近くの浅瀬を泳ぐ雑魚共から冷たい目を向けられるだけ。そもそも無能な魚ごときが俺というものを理解できるはずがないのだ。そう、理解できるはずが。


ぶくりと水泡が自然の理に従って上へと上っていく。ふわりふわりと水中を揺れるそれを見上げていれば、途端に歪む視界。その正体を俺は知らない、知りたくもない。ただそれが溢れ出したら何故だかどうしようもなく哀しさが胸へ迫ってきた。ギュッと心臓が鷲掴みにされたかのように痛くて、心から流れ出しそうなそれを留めようと俺は自身の唇に歯を突き立てた。鉄の味が口内に蔓延(はびこ)り、溢れて塩辛い水の中へと溶ける。
生気を失った薄紫色の唇に痛覚というものが存在しなかったのはこの場合良か悪か。ただ、なんだかそれが自分を人間という種族から余計に引き離しているかのように感じたのはきっと気のせいではない。
そしてその自覚は、無意識に再び伊佐奈へと痛みを加えようとした、が。


「…ッ!?」


フッと唇に触れたのは鋭い自分の歯牙ではなく、肉厚のある滑らかな指先だった。だがそれは明らかに人間のそれではない色をしていた。否、それ以前にこんな海の深くで人間のそれを見ることなどあるはずがなのだ。…しかし人間以外にこうも指先がはっきりとした生物が、はたして海という水を湛える場所に生息しているのかと聞かれればきっと答は否だ。…それならこれは?
伊佐奈はそう心中で模索するが適当な答は出ない。しかたなく唇に触れていた手を払い、その腕の付け根があるだろう背後へとゆっくり振り返る。


「あ、」

思わず息を詰める。目の前にあるお伽話にも出てこないようなある“もの”に目を見張って。

「そんな驚いた顔をするな。俺だって分からないんだ、この姿に変わった理由が。…だけど」

(貴方でしょう)

「ここで誰かを欲し、求め泣いていたのは」


スルリと汚れない黒の指先が伊佐奈の頬に触れた。それに温かさは少しも感じられない。だがどこか温かだった。それは外部からきて得られるものではけしてなく、胸の奥から沸き起こる、名を知らない温かさだった。そのなんとも言えない心地良さに目を細めれば、目の前の黒い巨体も同じように目を細め、頬に触れていた指で伊佐奈の肌膚を上から下へと撫でる。ゆっくりと何かが伝う擽ったくなるような感覚に伊佐奈はほぅと熱い息を吐き出す。それを横目で見、鯱は伊佐奈の身体の下へと身を沈めた。伊佐奈はその動きに吊られて目を流すように下へ向けると、バチリと異質なそれと目が合った。しかし鯱のそれは直ぐに外され、代わりに伊佐奈の尾鰭の付け根の辺りに自身の前頭部を当ててゆるりと目を閉じ、口を開いた。

「人間である貴方が何故このような姿になったのかは分かりませんが、貴方の声が聴こえ、姿が変わった時。身勝手ながら一人誓ったのです」


(もし私がこの声の力に少しでもなれるのならば、どんな些細なことでも助けてさしあげましょう、と)

そう言って鯱は伊佐奈の足先で揺れる尾鰭に手を添え、ゆるりと自身の口元へとそれを寄せる。そして柔らかな鯨のそれに優しく口づけ、顔を上げて再び視線を絡ませると笑うようにスッと目を細めた。


「貴方の強き力がその心から消えない限り、永遠に」

ふわりと流れ頭に流れ込むただ一つのその言葉は、胸の奥で聞いたことのないくらいの微かな、それでいて優しい声音を発して奥深くへと刻み込まれる。



暗澹な海底に、朝がやってきたような気がした。




深き蒼海より誓言
(嗚咽の代わりに触れた黒い肌はやはり温かく)
(軋むほど抱き締められたこの身体は限りないほど愛おしく)




――――――――――
緋色さん
リクエストありがとうございました!【If 伊佐奈の下半身の呪いが解けてなくて(←人魚)その頃サカマタに出会っていたら】とのことだったのですが…リクエストに添えているでしょうか?大好物なネタ過ぎて書きながらにやけていた(←)のでなとまちの変な妄想まみれだと思うのですが…よろしければ貰ってやってください(笑)
緋色さんに捧げます!


[ 4/5 ]
[prev] [next]



Back


「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -