無色透明で良い
夜のある寂れた動物園の園長室。ベッドの中で椎名はもぞもぞと動いて寝返りを打つ。
冬の夜中。
兎には身体の周りに毛が生えている、といっても冬というのは体温調節が難しい時期である。隙間風に身体を震わせ、肩まで布団を被せる。眠る体勢になってからすでに10分経過。布団の中は微かに椎名の体温によって温められ、ぬくぬくと温かい。
これならもう少しで寝られそうじゃな…。
そう思った矢先、意識が夢の中にぷかりと浮上。
しかしその時。
「兎」
「っ!?」
耳元でいきなり囁かれた声にびくりと身体を震わせ、椎名は勢いよく起き上がった。そして自分でも分かる不機嫌な低い声を口から紡ぎ出し、目の前にいる常識外れの奇人を睨む。
「何の用じゃ、ヘルメットマン」
「伊佐奈だ」
ちゃんと覚えろよな と溜息をつく伊佐奈に じゃあもっと単純な名前をつけろと言い返す。複雑な物の名前を覚えるのは苦手なのだ。そう言えばこの名前のどこが複雑なんだとむくれられた。
「…まぁ今はいい。それより兎、今から外に出よう」
「なんでじゃ?」
「なんでも」
伊佐奈はいつもと同じ涼しい顔でそう言い切る。なんでこいつはこんな寒いのに普通に立っていられるのだろう。
眉をしかめてジッと見つめると伊佐奈は肩をあげて左右に両手を広げた。
「まだ夜は長い。どうせ今日も客はゼロだろう?」
「やかまし」
椎名はとりあえず手元にあった人参を投げるがあっさりと交わされ、代わりに自分の赤いマフラーを投げ渡される。
「とにかく、それつけて早く来い」
「お、おいっ!!」
マフラーから目を離して伊佐奈がいた場所を見るが…すでに外に出たのだろう、鯨男の姿が見えない。
「…ふん」
椎名はマフラーをぐるりと適当に巻くと、肌寒い冬空の下へ足を踏み出した。
―――――――――――
外は予想以上に寒かった。いつもの夜中の気温ならまだ我慢出来るのだが…。
椎名は暗い夜空を見上げる。白い結晶が次から次へと落ちて来る。
…通りで寒い訳だ。
椎名はぶるりと毛を逆立て、摩擦熱が起きるように手で両腕をさすりながら伊佐奈を見る。
彼は先程からジッと空を見つめていた。
早く布団に入りたい。
椎名はただその一心で伊佐奈に叫び、声をかける。
「で。何じゃ」
「雪が降ってる」
「そんなん知っとるわ。わしが聞いとるのはだな、」
「雪を、お前に見せたかったんだ」
「は?」
口がポカンと無防備に開く。
その口から吐き出された白い息が、冷たい空気中を浮遊した後少しして消えた。伊佐奈はそんな椎名のことをお構いなしにどこから取り出したのか、一冊の本を手の中で振る。
「こういうロマンチックなことをすればいいと、この本に書いてあった」
そう言って鯨男は本を両手で挟んでパラパラとページをめくり、目的の箇所を椎名の前に表示する。目を見張ると《彼女を喜ばせるコツ》などという大きな見だし言葉が目に飛び込んでくる。
馬鹿らしい。
そう思った。
第一自分は女じゃないし、雪を見て感動するロマンチストでもない。だからこれははっきり言って大迷惑なことだ。寒いし、眠れそうだったところを起こされたのだから。…だけど、
「お前も暇じゃなぁ。こんな寒い中こんな所まで来て」
「…悪かったな」
「まぁその珍し過ぎる良心は受け取っておくが…」
わしは積もった白の塊を踏みながら彼に近付き、雪を被った黒い髪に両の手を置いて少ししゃがみ込むと、その額へ触れるほどの口づけを落とした。目の前の暴君は瞬きを何度も繰り返してわしを見つめてくるものだから、少々気恥ずかしくなり軽く咳ばらいをして口を開く。
「ただな、今度わしを喜ばせようと思うなら人参を大量に持ってくるんじゃな。」
そう言って笑ってやれば、一瞬目を丸くした彼ははにかむように笑って白い息を吐き出した。
「はいはい。今度はちゃんと持ってくるよ」
その笑顔に胸が鳴って、やっぱりなんだかんだでわしはこいつが好きなんじゃなと改めて実感するのだった。
無色透明で良い (色付かなくともそれは美しい)
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