果てなき境界


午後、6時30分。
彼は決まってこの時間近くになると俺を呼ぶ。
勿論その声にはけして、恋人同士間の甘さなどは少しも入っていない。
ただ彼が俺を呼ぶ理由は、


「あ、園長。今日も水族館行くんですかー?たまには動物園のことも」
「ア、アホっ!誰が好き好んであんなとこ行くか!!行かんとあのクジラマンが煩いから…」

必死で弁解するように声を荒げる彼の横顔は、口から絶え間無く出る言葉とは反対の気持ちのせいで真っ赤に染まっている。それはけして届かない、彼と俺の距離を明瞭にしていた。胸の中のモヤが疼く。


彼はあんなことを言うけれど、ほんとは心中あの鯨男に逢いたい気持ちで一杯に違いない。ほら、時折ああやって時間を確認するように視線がゆらゆらと揺れる。きっと彼と逢う時間を決めるほどあちら側は忙しいのだろう。だが、それでも彼は何時でも傍にいる俺ではなく、あの鯨男がいいんだよな。俺では何もかも足りなくて、彼の欲する何かは俺じゃあ与えることが出来ないんだ。このいいようのない無力感に、俺はただただ絶望する。そしてそんな俺に追い討ちをかけるように脳内に浮かび上がった、仲睦まじき二人の姿を揉み消し、心の中で渦巻く恨めしい嫉妬心を鎮めるために少しの間空を見上げた。
目前に広がっている自由な俺の世界は、いつからこんな狭くなってしまったのか。小さくなったこの場所に俺は何のためにいるのか、その理由さえ見つけられずに俺は深い息をついた。




 ――――――――――――― 


それからしばらく経ち、彼が再び俺の名前を呼んだ。
きっと園長は飼育員との会話(という名の言い合い)を終えたのだろう。タカヒロ、行くぞ と帽子を深く被り直した彼に、俺は短く承諾の意を込めて返事をした。


人参を銜えて煙をモクモクと出す兎の彼の姿に背を向け、翼をバサリと鳴らす。俺の背にかかる彼の重力は、長身の癖に思っている以上に軽い。人参を一人独り占めする癖にすらりと整ったスタイル。…まったく格好の良いことだ。
横目でじっと見つめれば、背中に立つ彼は深く被った帽子の中で不思議そうに紅い目を揺らす。



「タカヒロ」


「あ…申し訳ありません」


彼に名を呼ばれるだけで高鳴るこの心臓はなんだろう。握りつぶせば、きっと俺の意識と一緒にどこか遠い場所に行ってくれるのだろうけど。ただ、きっとそんなことをしたら空回りした勘違いくらいしか生まれないことは分かっている。なぜなら、彼が俺を呼ぶ理由は別に彼が俺のことを好きだとかそういうのではなくて。勿論愛おしいから呼ぶのでもなくて。
彼はただ、ただあの人気の水族館の館長に逢いに行く為に、俺を呼ぶのだ。だから、彼の心に俺なんて少しも…




「タカヒロ…?」



彼の声にハッとした俺は、自身の頭をふるふると振り、翼に力を入れて地面を蹴った。ふわりと彼を乗せた身体が宙に浮かぶ。


(園長を丑三ッ時水族館に送り届けること、それが今の俺の任務!!)



だから俺の心には邪念などあってはいけない、否あるはずがない。
任務中に世迷い事は禁物。乱れた心では任務の成功など出来る訳がないのだ。…それ、なのに


「ッ!!」
ヒタリと頬に触れた暖かな自分以外の温度にびくりと身体を震わす。顔を少し上げると 園長が意地の悪い顔でニシニシと笑う顔が見える。
俺は眉を顰めながら園長…と呆れ声で呟いた。


「飛行中にそんなことして、俺が落ちたらどうするんですか…」
「その時はその時じゃ」
「こんな海のど真ん中で落ちたらその時なんてものは、」






「…じゃあそんな面白くない顔するな」
「え、」



口から零れた声が掠れた。俺の小さな心臓が破裂してしまうかの如く大きな音を出す。しかしそんな俺の心の音など聴こえない園長は、声色を変えないまま静かに呟いた。




「わしは面白いことが好きじゃ。お前が面白くなければわしも面白くない。…じゃから」







タカヒロ、笑え


あぁ、貴方はいつも無茶をいいなさる。俺がどんな思いで貴方の傍にいるのかも知らずに、貴方はそんな無責任なことを言う。
だから俺は少しの望みもないことを知りながら、貴方に叶うことのない無意味な恋慕を抱き続けているのだ。
俺は自分の馬鹿さ加減に笑みを零しながら、何故か満足そうな顔をしている園長に向かって言う。




「じゃあ今日一日、俺に付き合って下さい」
「…しょうがない奴じゃな。面白くなければわしはこっから飛び降りるぞ。」
「物騒なこと言わないで下さいよ。…ですが、そうですね」









空と海が交わったその先まで、一緒に







そう言えば、彼は面白そうじゃ と優しく笑った。


あぁどうか。
この幸福が夢でありませんように…。






果てなき境界
(見えぬ世界のその先に、私と貴方は何を見よう)



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