幸せの意味なんて知らない


「…はぁ」

ベッドから起き上がり、俺は額に手を置いて一つ深い溜息をつく。
何かに失望したとか安心したからとかそんなんじゃない。
ほんとは、ただ単純に息を吐くつもりだった。
…それなのに俺がそれを出来ないのは、きっとこの身体に起こっている異変のせいだ。



目が覚めた時から気付いた。
頭はガンガンするし、身体は熱いのに肌に感じる寒さが異常だし、自分の吐く息がいつもよりも熱を持っていたから知らざるおえなかった。
けだるい身体をゆっくり起こし、体温計を探して計ってみると〈39.2〉と出てきたが…自分じゃこれが正常なのか異常なのかどうなのか分からなかったから放っておいた。
まぁ、そのうち治るだろう と思っていた。
しかも今日は大事な金づるが来る日だったからどちらにしろ行く必要があった。
俺はふらつく足に力を入れてけだるい身体に鞭を打ち、ゆっくり自室を後にした。



 ――――――――――――― 




「それで、これからのことなのですが…」
「うん、いつも通り君が僕に必要な分を言ってくれればその分出すよ。ってキャーセイウチキター!!」キーンとスポンサーの声がぼんやりとした頭に響く。
まったくもって煩い。
少しはこの金づる静かに出来ないのか?
にっこりと笑みを浮かべたまま、伊佐奈は内心で悪態をつくが、揺れる視界にその苛立つ思いは消え、ガンガンと痛みを伴う頭に右手の指を押し付けて目を瞑る。

放っておけばよくなるかと思ったが…これはまずい、な。

「少し、失礼します」

スポンサーにそう一言声をかけ、客用の豪勢な部屋から外に出る。

ショーが終わるまでの間だけでも…なんとか休めれば……

ふらふらとする身体を壁に手をつき支えながら、ゆっくり前へと進む。
覚束ない足元が固定しない視点によってさらに揺れてみえた。
二重に見える景色。
歪む色彩。

あぁ…やばい と気付いた時には身体がふらりと前に倒れ込む所で、伊佐奈の身体は宙に浮かぶ。
近付く地面。
重たい瞼に目を閉じて、身体にあるだろう衝撃に伊佐奈は身を固くした。





「…何をなさっているんですか」


痛みの変わりに身体が優しく抱き留められた。
ゆっくりと瞼を上げると呆れたように俺を見るシャチの姿があった。
その呆れ顔にムッとして、尻尾でひっぱたいてやろうかと思ったが上手く変形出来ずに仕方なく諦める。


「…何でもない」

その代わりに拒絶を表してシャチを突き飛ばして立つが、一瞬にして膝から崩れ落ち、再びシャチに支えられた。


「何でもない訳ないでしょう。こんなに身体が熱いのに」
「いつもだよ」
「…とにかくお部屋で休んでいてください」

スポンサーにはこちらからちゃんと言っておきますから。
そう言って俺の背中をさするシャチの手が妙に優しく思ったのは気のせいだ。
俺はキッとシャチを睨み、背を向ける。
しかしやはり現状は変わらず、歩く度にふらふらと身体が揺れた。
体力の落ちた身体では、自分の体重さえも支えられないなんて、なんとも情けないことだ。
しかもシャチなんかにこんな醜態を晒して…俺はもう…

「…館長」


あぁあ、まったく今度はなんだっていうんだ。
お前と話してるのってだけでも怠いのに、この身体じゃその倍くらいこの場にいるのが怠く思える。
何か用があるなら早く終わらせてくれ。

息を深く吐いて後ろに振り返ると、すぐ目の前にシャチの着ているスーツが見えて顔を上げる。
この距離は首が痛い。
早く用を言え、シャチ。

「…失礼します」
「はぁ?何を……!?」


シャチの言葉に眉をしかめると急にシャチが腰を屈ませ、その瞬間自分の足が地面から離れた。
身体がギュッと抱き上げられ、身体が縮こまる。


「シャチ、降ろ、せ…っ」
「こっちの方がでら速いです」
「だからってな」
「…申し訳ございません。しかしながら、私には苦しそうな館長を見ていられませんでしたので」

少しの間我慢していてください と小走りするシャチを見て、もう少しこのままでもいいかもな とシャチの胸に顔を寄せて目を閉じた。




幸せの意味なんて知らない
(だからこれがなんなのかなんて、知るよしもない)



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