貴方と私でプチ奇跡


「私は館長に感謝している」

ある休館日。ショーステージの白い床を二人してブラシで擦っている時、一角がそんなことを言った。思わずブラシを落としそうになった手に力を入れ直して俺は怪訝に目を細め、耳を疑うような言葉を吐いた相方を見た。

「か感、謝?」
「そう、感謝だ。…デビはしていないか?」

一角は床を懸命に擦る手を止め、真っ直ぐな瞳で俺を射抜く。開館中は騒がしいほど人で賑わうこのホールも、今は俺とこいつしかいなくて閑散としている。俺はショーステージから、下の水槽へと繋がっている大きな水溜まりを見つめた。館長によって姿を変えられた、自分の姿に悪態をつく。

(…冗談じゃない)
館長に会わなければ俺はもっと自由に生きられた。こき使われることもなく、一人気ままに蛸のまま、蛸の生涯を送っていられた。
言うことを聞かなければ殺される、なんて心配もしなくていい。そんな地獄にも近い場所に縛り付けるものが、もしないとしたら、俺は迷うことなくここから離れる。そして何も束縛のなかったあの場所に、海の底へと沈むだろう。だけど…

チラリと後ろに視線をやる。ブラシ掃除をいつの間にか再開していた一角の姿が視界に入り、無意識にサッと視線をそらして再び水面を見つめた。しゃがみ込んで、膝の辺りに顔を押し付ける。
(それなのに、)



それなのにお前は、
何故その鎖に縛られていてよかったと言うのか。俺と同じように今まで散々なことされて来たくせに、何故お前は何でもないような顔で笑えるんだ。

分からない。
お前は自由が欲しくないのか、そうなればこんなとこよりももっと広大で深い場所にいられる。
海に帰りたくないのか、お前の故郷はもっと遠くて寒いところなんだろ。
仲間に逢いたくないのか、兄弟がいるって言っていたじゃないか。…全部全部、大切なものはあの近いくせに一番遠い、あの真っさらな青色にあるというのに。
お前は…どうして、

「っわ」
「…っ!?」


一角の叫びが聞こえ、俺ははっと感情のままに後ろを振り返る。先程まですぐそこにいたのに、その姿が見えない。名前を呼ぶ。

「い一角く…っ」


返事がない。
何故だか急に不安になった。俺は上手く動かない口を懸命に動かして、もう一度、名前を呼ぶ。

「一角…っ!!」


ステージホールに自分のしわがれた声が響く。やはり返事がない。胸がずきりと痛くなる。


一角、どこ行った。早く返事しろ。まだ掃除終わってないぞ、このまま放って行く気か。ふざけるな、…ふざ、け


頭に思い浮かべた数限りない全ての言葉は、口に出する前に嗚咽に交じって消えた。それと同時に塩辛い水滴が目元から頬にかけて伝う。海と同じ味が、口内を支配する。


一角…なんでもいいから、早く早く声を
声を聞かせて



「ぷはっ」
ばしゃり
水が跳ねる音。息を吸う音。声の代わりにそんな音が聞こえて、俺は泣き腫らした目で音の方を見る。視界に映る、水面から顔を出すその姿は、どうにも見覚えがあった。


「いい一角…」



ぽろりと零れた言の葉は、一角の横から水面に顔を出す水色の哺乳類によって掻き消される。思わず目を見張る。

「イル、イルカ…?」
「鉄火マキ殿が何処かにいかれてしまって不安だったようだ。いきなり飛びつかれ、そのまま下まで一緒に潜ってしまった」


一角は水面から腕を出して地上に上がると、濡れた手でイルカの頭を撫でる。キュィと小さな声で鳴く可愛らしい生き物に一角の顔も綻ぶ。


「君は本当に鉄火マキ殿が好きなのだなっ!うむ、私は君に会えたことを誇りに思う」


一角はそう言って小さく口笛を吹いた。イルカはもう一度高らかに鳴き声をあげた後、派手な水音をあげて水中深くに潜っていった。消えていくその姿を俺がじっと見つめている、と。

「デビ」

呼ばれた自分の名前に、俺は水面に落としていた目線をあげ、びしょ濡れの相方を見た。視線が絡まる。一角はぴしゃりと水の音と共に俺に一歩一歩近付いて来て、あと30aというところでピタリと止まる。ぽたりと、白い制服は吸った水を吐き出すように、途切れなく地上に透明な雫を落としていく。一角の手が俺に向かって延びる。


「地上に……ここに来ていなければ彼にも会えなかった。鉄火マキ殿にもドーラク殿にも、カイゾウ殿にもサカマタ殿にも。…そして何より、」


「君にも会えなかった」



ひんやりとした一角の手が俺の目元を拭う。目から溢れた塩水とは違う、本物の海水が頬に付着する。一角は、優しげな表情のまま目を細める。


「今ここにいるから私はデビと巡り会えたんだ。…これを運命と呼ばずになんと呼ぶ?」



自身を紳士と名乗る俺の相方は、そう言うと首を傾けて俺の顔を覗き込む。そして俺と目線が合ったのを確認すると、にこりと嘘偽りない顔で笑った。何とも幸せそうな顔に、思わず釣られて笑いそうになる。一角はそんな今の俺の心情など知らぬまま、俺の名前を愛おしそうに呼んだ。


なぁデビ。
だから私はとても彼に感謝してるんだ。
だってこれは、


貴方と私でプチ奇跡
(君に出会えたこの奇跡は、私にとって何にも変えられないものなんだ)





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