アイビーの約束
「俺達のこの関係ってもう限界だと思うんだ」
暗い館長室に響いたその言葉に背筋がぞわりと逆なでされるような感覚がしたのをわしは覚えている。
いつも通り動物達と遊んび終わってから来るこの施設は確かに薄暗く、それをライトアップで煌煌と輝かせているに過ぎないのだがそれとは明らかに違う暗さだった。
日常となっているノックなしの訪問をすれば、目の前に置かれた高そうなソファに腰を下ろして彼はいた。珍しいこともあるものだと初めは首を傾げた。だがそれと同時に嫌な予感がした。なんとなく、彼の表情から言わんとしてることを読み取ってしまったような気がしたから。
「椎名」
低い、いつも通りの心地好いアルト声が耳朶で響く。返事も出来ずに顔だけ彼へと向ければ、向かいにある同じ形をしたソファへとわしを促すように自身の綺麗な指先を前へと出した。
「話がある」
その言葉の威圧感に何の反論もすることも出来ず言われるがままにそこへ座れば冒頭の言葉は何の前触れもなく降ってきたのだ。
それは衝撃というより無であった。ショックを受けて落胆するということはなく、きっとその時のわしの顔は一切の表情を無くしていただろう。
だって信じられる訳がないだろう。
昨日までくすぐったくなるような愛を囁いて笑いあっていたというのに、どうして彼の言葉を信じられようか。
しかし時間が経つにつれてそれは現実として受け入れられ、溶けるようにして心へと沈みこんでいった。自覚することによって心に生じる痛みと上まぶたの裏にある涙腺はプルプルと震えた。
(あぁ、でもここで泣いたらきっともっと嫌われる)
そう思ったら唇を噛み締めて堪えることで全てを押し止めることしか出来なかった。辛くても、わしの中では今だ想い人という存在なのだ。
何が彼を不満にさせたか分からないが、これ以上の悪い心象をつけたくはなかった。
(だって愛していたんだ)
けして口には出さなかったけど。
(伝わっていたと思ったから)
だってその時のお前の顔は限りなく優しくて
(ちゃんと言葉にしたらよかった?)
だってそうしたら、そうしたら、
(お前が別れを切り出すなんて、きっと)
「…だから結婚しよう、椎名」
「………へ」
気が抜けて留めていた涙が一筋零れた。伊佐奈は少し驚いたように目を見開いた後呆れたような、でも慈しむような甘い瞳でわしを見ながら細長い角張った親指で頬を伝った筋をなぞるように撫でて囁くように言った。
「まだもうちょっと先の話だけどさ。でももし俺の顔半分と椎名の身体全体が戻った時は、」
(受け入れてよ、俺のこと。だって)
「俺にはお前が必要なんだから」
(それはお前も一緒だろ?)
なんて悪戯っぽく笑うから、なんだか勘違いしてた自分が馬鹿らしくなって肯定の意を表(ひょう)して代わりに目一杯の笑顔を零してやった。
うん、大丈夫。
わしらはいつかの幸せを一緒に夢見るよ。
そして共に幸せの誓いをたてるから、その時はどうかよろしくな。
アイビーの約束(確かな約束なんかじゃ全然ないけど)
(これからどんなにかかってもきっとずっと信じてられる、唯一の契りであることには違いない)