髪切った?と触れた指先


夜の水族館。
館内が魚を見るためだけに来る多くの客で賑わう中、伊佐奈がいるこの館長室だけはその賑わいに準じていなかった。
シンとした静寂の中にペンのインクが紙面に文字を成す音が不規則に聞こえる。
まるでこの空間だけが水族館から切り離されたような、そんな感覚が身に染みるようだ。

だがその静けさをものともせず、それを逆に破るかのようにいきなりバンッと派手な音を出して扉が開いた。
立て付けが悪いのか、ぎしりと不吉な音がなる。
しかしそんなノイズにはすでに慣れたのだろう、書類に向かっていた伊佐奈は手を自然と止め、あぁ兎来たのか と顔をあげて笑った。

「今日は随分と遅い到着だな。何かあったのか?」
「あいつらと遊んどったらいつの間にかこんな時間になっとった。それより、お前こそどうしたんじゃ、それ」


そう言って派手な登場をかました椎名は人差し指を突き出して伊佐奈に真っ直ぐ向ける。
一瞬の間があった後、伊佐奈は納得したように口を開け、ペンを持っていない右手を自分の上方に延ばした。

「あぁ。うっとおしかったからシャチに切らせた」

伊佐奈は椎名が指差した自分の髪を一束掴み、まるで興味ないというようにそう呟いた。


その髪は見るからにパサついていて、けして手入れが行き届いているとはいえなかった。
しかし、日を浴びていない非健康な白い肌と色素の濃い黒い髪の異様なコントラストは、単純に綺麗だった。
ともかく、こいつによく合っている。

「ふーん。あのシャチ、そんなことも出来んのか」
「こんな形(なり)じゃ外にも出られないからな。」

だから早く人間に戻りたいんだ、と顔の半分を覆うヘルメットをコツコツと叩きながら伊佐奈は左手に持ったペンをカチリと鳴らした。椎名は伊佐奈のその行為に彼の机上を見る。踵を返し、いかにも高級そうなソファに身を沈ませ、ふっと小さな息を吐いた。

「…待っててやるからはよ終わらせろ」
「察しが早くて助かるよ」


伊佐奈はにっこりと笑った後、ペンを持ち直してカリカリとそれを動かし始めた。
ペンの先が滑らかに机の上を滑り、椎名がふと再びそれを見る時には既にその場所には違う紙が置いてある。全く人気水族館の館長はやること成すこと色々あって大変じゃなーと笑ってやれば、お前はもっと真面目に動物園のこと考えろよと呆れられる。その間にも書類は何枚も片付いて行き、椎名は後頭部に腕を回し、じっと伊佐奈の横顔を見る。

(…それにしても)

椎名はふと、伊佐奈の仕事っぷりを眺めていた視線を奥にある本棚や大きな窓に漂わせる。

(待ってる間、何をしていようかの)

伊佐奈を待っている間、このままずっとこれを見ているのはつまらない。つまらんことは嫌いだ。
何もせずにいるなんて人生の1/2を損しとる。しかしだからといって椎名の興味をそそるものはこの部屋にない。一度この部屋の本を手にとって見てみたが、どこを見ても知らぬ漢字ばかりが並んでいてすぐに興味が失せた。伊佐奈はよくこんな堅苦しいもんが読めるものだ。


そしてそんな思案の結果、椎名は仕方なく立ち上がり、伊佐奈に近づくとその短くなった髪に自身の指を絡ませる。その髪はいつも海水に浸かっているくせにべたつかなかった。それはあのシャチの手入れのおかげか、はたまたこいつの髪質なのかは分からないが、どちらにしても見ている側として不快感はない。さらりと椎名の数本の指から絡まり抜けるそれの感覚は、自身が幼子の時以来だ。
やはり人と兎では違うな などとごく当たり前なことを考えながら、面白くなって何度もその髪に手を延ばした。すると下からじっとりとした視線を感じ、一度動きを止めてその方向を見る。案の定その視線は鯨男の物だった。椎名を捉えた彼の目はうっとおしげに細められ、不機嫌そうな顔で眉をひそめていた。
椎名は首を傾げる。

「なんじゃ?」
「そんな何度も触れられると仕事に集中出来ない」
「えぇじゃろ。何もすることないんじゃ」
「お前が欲すれば出来るかぎり用意できるが」
「いらん」

椎名は手を動かして伊佐奈の髪を指で挟み、親指の腹でそれを撫でる。
その時、胸に引っ掛かる靄(もや)が心を擽った。


これは一体なんなんだろう。
なんだかもわもわと形なく漂うそれは、はっきりとしないくせに胸が痛い。
ふと視線が合う。昨日まで癖のある髪で軽く隠れていた目が今はしっかりと見える。相変わらず死んだ魚のような目だ。だけど椎名にとってはそんなこと劣るにも足らないことだった。愛おしかった。彼のその全てが。
隠さず見えるその姿が、見える項から首筋まで。

「椎名」
伊佐奈が椎名の名を呼び、それと同時に身体が低い体温に包まれる。胸のもやもやが弾けるようにして形を現し、ギュッと締め付けられる。

「お前、俺の水族館潰す気か」
「は?なんでそうなるんじゃ」
「いや、可愛すぎるから」

は?と思わず声が漏れる。顔が熱い。体温がぐつりと煮えくりかえるような感覚がして思わずその肩口に顔を寄せると、喉で笑う伊佐奈の声がした。

「好きだよ、椎名。俺も早くお前が人間になったところを見たいな」


椎名の耳元でそう囁いた優しい声音に、椎名の長い耳がぶるりと震えた。
鼻につく強すぎる塩の香りが、今は酷く愛しかった。




髪切った?と触れた指先
(触れた先から貴方色に染まっていってしまうようで)






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