アクアリウム | ナノ

ダイヤモンドダスト戦から数日後の夜、円堂はなかなか寝付けない時を持て余していた。突如突き付けられたカオスの挑戦状の事で頭が一杯になり、目が冴えてしまったのだ。
気分転換も必要だと思い立った円堂は、物音を立てないよう細心の注意を払い、キャラバンの扉を開ける。外はひんやりとした空気が張り詰めており、少しだけ身震いをした。屋根へと続く梯子に手をかけ、数段上ったところで既にそこにいた人影に気付いた。
その人物はこちらに背を向けて座り、あらわになった白い腕に、先端の尖った細長い何かで触れようとしている。みまごう筈がない。長い髪、白い服、夜の光に浮かぶ姿。最近一番の衝撃を与えた、新たな仲間。

「アフロディ?」

その名を呼べば、視線の先の人影はびくっと震えて振り返った。驚いたような深紅の瞳は、暗闇の中で僅かな光を取り込んで輝き、円堂の姿を宿す。
円堂が屋根の上に上がると、アフロディは左手に持っていたものを隠すように右手を重ねた。
「帰ったんじゃなかったのか?」
「うん…ちょっとね」
「何かあったのか?俺で良ければ聞くぜ」
そう言って笑った円堂にアフロディは少しだけ困惑した。大勢がいる中では今までの自分でいられるのに、真っ直ぐな円堂と1対1で話すとなると僅かな緊張が生まれる。過去にした過ちは全て断ち切られ、「仲間」になったはずなのに、未だに変に意識するせいで上手く言葉にできないのだ。

「…ボールを、借りに来たんだ」
「ボールならお前の家にもあるんじゃないのか?」
「あ…えと、家っていうか…無いんだ、サッカーボール」
しどろもどろになりつつ呟いたアフロディの言葉に円堂は「まあボールの一つくらい良いけどさ」と首を傾げる。その言葉を聞いたアフロディはしまったという顔をして、「やっぱり良い!」と立ち上がろうとした。

その時だった。アフロディの左手から滑り落ちた何かが、足元に落下してカランという音を立てた。そしてそのまま円堂の元へ転がり、渡すため円堂が拾おうと手を伸ばした瞬間。
円堂の目がそれを捉え、伸ばされた手は空中で止まる。アフロディの表情は更にまずいというように歪んだ。

「アフロディ…これって、」

言い終わる前に、転がったままのそれをアフロディが急いで先に拾い上げた。しかし既にその行為は無意味だった。少しの間生まれた沈黙を円堂の声が破る。

「これ…注射器、だよな」
「…うん」
「何で、こんなもの…」
円堂の問い掛けに、アフロディは迷うような表情を見せた後小さくため息をついた。そして決意を固めたように真っ直ぐ円堂を見て、口を開いた。

「後遺症の処置なんだ」
「後遺症…?」
「そう。…神のアクアの後遺症」

呟かれた名前に円堂は目を見開く。
神のアクア。かつて雷門と戦った世宇子が使用していた「身体強化」の薬だ。しかしその正体を知っているからこそ、円堂は見開いた瞳をアフロディから逸らせなかった。
「一日一回これを打たないと、筋肉がすぐ無くなっちゃうから。それこそサッカーなんてできないくらい」
言いながらアフロディは慣れた手つきで針を腕に刺し、中身を注ぎ込んでいく。針を抜き、再び円堂に向き直ると、少しだけ困ったように微笑みながら言った。

「僕は君たちの仲間になれたんだよね」
「ああ、お前はもう俺たちの仲間だ」
「じゃあ尚更だ。何かを隠したまま戦うのは、何かを頼むのは、仲間と認めてもらった以上したくない」

そう言ってアフロディは円堂を見据え、円堂もまたアフロディの視線を受け止めた。深夜のキャラバンの上に、二人分の影が引かれる。


「聞いて欲しいんだ。神のアクアに関わった者たちの末路と、その昔話を」