アクアリウム | ナノ

支えられて踏み出す足は微かに震えていて、自分で言うのも何だが何とも言えず情けなかった。今日の試合で受けた傷は幸いにも軽かったが、大事を取って入院しろと言われてしまった。でも確かに倒れるまで傷を負ったのだから、仕方ないのかもしれない。
屋上に吹く風は生ぬるく、夕方であることを思い出させる。その風に乗って流れそうになった髪を押さえるように体を捻り、二人掛けのベンチに腰をかけた。

「本当に寝てなくて大丈夫なのか?」
円堂くんの声のトーンが少し暗い。それに「大丈夫だよ」となるべく明るく返した。明るい彼には落ちた声が不釣り合いだ。

「…すまなかったな、アフロディ」

更に低い声で、うなだれるようなトーンで彼は謝罪の言葉を紡ぐ。それは紛れもなく僕に向けられているものだった。
「俺たちに力がないばっかりに、お前をこんな目に遭わせちまって…」
「…別に円堂くんたちのせいじゃない。…あれぐらいのディフェンスを破れないなんて…僕もまだまだだね」
「アフロディ…」

円堂くんが眉根を寄せるようにして僕の名前を呟いた。叱咤するように、なだめるように、あるいは。不安げな声色は、おそらく弱気な姿を見せてしまったからだろう。それもそうだ。カオス戦の前の夜、一緒に頑張ろうと言ってくれた彼に対して、僕も前向きに進んでいくことを示したから。
その気持ちに嘘はない。あの時の決意も、ようやく分かった自分の心も、どれ一つとして間違いなんてないんだと思える。だから一層悔しさも募る。それが顔や態度に出やすくなってしまったなんて、本当に僕も人間臭くなった。…いや、元の僕に戻ったのだろう。きっとこれは良い事なんだと思えるようになった。雷門のメンバーとして戦ったことで。

コツ、と靴が地面を叩く音がした。顔を上げると、そこにはマフラーをした彼が立っていた。円堂くんが彼を呼ぶ。均衡と静寂を保っていた空気が、揺れた。

「吹雪!」

吹雪士郎。初めて会った時から僕と世宇子に近いものを感じて、勝手に説教をして少し困らせてしまった。似た境遇の彼が自分の力でサッカーに復帰できる事を確かめたかったのだ。それを支えにしていたい、ただの僕の傲慢だったけれど。
今では何となく彼に対して後ろめたい気持ちを感じてしまう。彼の答えは彼自身が見つけるもので、僕が勝手に口を出して更に混乱させてしまったんじゃないだろうか。そう思うと、僕に落とされる彼の視線が少し気まずい。
彼の目に、僕はどう映ったのだろう。何を感じたのだろう。

「……」
彼が僕を見下ろす。一文字だった唇が緩やかな弧を描き、瞳はもう、あの時の弱々しいものではなかった。彼が口を開く。それが、やけにスローモーションのように長く感じた。

「……すごいね、君」

一瞬、ただその時が止まった。
目の奥がジンと熱くなる。思わず吸い込んだ息が鳴った。動かずに見つめ合ったままの僕たちを、円堂くんが不思議そうな目で見ている。
それだけ言って、彼は立ち去った。
僕のやってきたこととか、自分なりに頑張ってきたこととか、そういう誰にも見せられなかった部分を認めてくれたような気がした。あの日言ったことが伝わったような気がした。今までひた隠してきた気持ちを少しだけ分け合えたような感覚に、油断すると涙が滲みそうになる。それを堪えたら、思った事が口からスルリと滑り落ちた。

「…分かってくれたんだ…」
「…ああ。…ありがとう、アフロディ」

『ありがとう』。それは本当に久しく言われた言葉だった。円堂くんの口から思いもよらない言葉が出たことにびっくりして、頭が追いつかなくなる。混乱、焦り、そして、確かな幸せ。僕に向けられる感情が僕の心を揺さぶっていく。胸につかえた重みが解けていくような気がした。

「…円堂くん。僕、ようやく分かったよ」
「分かった?」
「ああ。僕はやっぱり世宇子の皆とするサッカーが大好きだ。世宇子の皆が、大好きなんだ」
「…そっか」
「だから、信じて待つことにするよ。いつか君が吹雪くんを信じて待つと言ったように、特別なことをしなくても良いんだ。彼らを信じていられたら、きっとまた戻ってきてくれると思えるから」

茜色に染まり始めた空を見上げながら呟く。単純だけど、とても大切なこと。それが分かっただけでも、この雷門加入は僕にとって良い事だったはずだ。
僅かな沈黙の後、再び彼が口を開く。すう、と微かに空気を吸う音が聞こえたと思ったら、彼特有のあの太陽のような笑顔を浮かべて円堂くんは言った。

「怪我治ったらさ、またいつでも来てくれよな。また一緒にサッカーやろうぜ」

へへ、と笑い、僕へ向き直る。それは魔法のような言葉だった。僕のわがままに付き合ってくれた彼の笑顔は、こんなにも僕の心を揺さぶる。
本人はといえば、鳩が豆鉄砲を食らったような気の抜けた表情で僕を見ていた。そして、緩やかにその顔が笑顔に変わっていく。

「…お前、やっと普通に笑ったな」
言われてから気付いた。――僕は、笑っていたんだ。
冷やかしでも嘲笑でもなく、本当の笑顔。いつの間にか忘れていたそれ。それが思い出せただけで、もう十分だ。それがきっと、一番幸せなことなんだ。

割と長い時間ここにいたと思ったけれど、どうやらそれ程でもなかったらしい。しかし確実に夜は迫り、屋上から見える景色はさっきよりも幾分か夜の色を携えている。
そう思うと少し寒くなってきた。一筋の風が僕らを通り抜けると、彼もその冷たさに反応したのか「寒くなってきたな」と漏らす。それに頷けば、彼は少しだけ強い声色で「怪我人はやっぱりちゃんと寝てなきゃ駄目だ」と放つ。
今はその言葉に甘えさせてもらおうと思う。屋上の扉が閉まる直前、扉の向こう側に必死でもがいている昔の僕の姿が見えた気がした。少しの間足を止め、円堂くんの声でその場を後にする。もう、その姿は見えなくなっていた。

――大丈夫、僕、幸せだったから。


円堂くんとは病室に戻る前に別れ、少しだけ軽くなった足取りで自分のネームプレートの掲げられた戸を目指す。ペタペタと気の抜けるスリッパの音が耳に響くのも、今は少し心地よかった。
とにかく、今は早くこの怪我を治そう。そしてまた明日から世宇子スタジアムで彼らを待とう。もし誰か一人でも来てくれたならその時はちゃんと自分の気持ちを伝えて、またみんなで笑いあえるサッカーがしたい。彼らが僕の声に耳を傾けてくれるか分からないけど、ありのままを打ち明ければいつかきっと必ず、

「あ、君!丁度よかった」
部屋の直前まで来た時、看護師さんが部屋から出てくるなり僕を呼びとめた。何かと思って立ち止まると、病室の方を指差し、言った。

「今、君の学校の子たちがね。手土産をこんなにたくさん持って、お見舞いに来てくれたところだったんだよ」


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