気が付けば、僕が身一つで立っている場所は真っ青だった。 一面の青と、静かな時間の流れる音。僕の周りを360度ぐるりと取り囲むようにガラスが壁を作っていて、それから発せられている青い光は、長い通路に立ちすくむ僕をも同化させるかのように、ぼんやりと足元を照らす。 ガラスの中の大小様々な魚たちは、まるで空を飛ぶように泳いでいる。それが何だかひどく懐かしいような感覚を呼び起こし、辺りをぐるりと見渡した。 「…馬鹿馬鹿しいなあ」 思わず苦笑して、水槽を背もたれに膝を折る。腕に顔の半分をうずめ、目を閉じた。ただ時間の流れる音と水槽の音だけが耳に通る。 これは明晰夢というものだろう。僕はこれが夢であることが分かっている。まったく、何が悲しくてこんな昔の夢を見ているんだ、僕は。 瞼を閉じていると、今までのことが順序立てて頭の中に浮かんでくる。思えば、今までみんなの気持ちについて考えたことはあったけれど、僕自身の事について深く考える余裕なんてなかった。ただ今自分が何をすべきで、何をしたいか。そして最初に持った願いだけ、それだけ抱えて戦ってきた。丁度いい機会かもしれない。こんな自分でも分かる夢の中なんだ、少しくらい考え事をしたって許されるだろう。今くらいこの馬鹿馬鹿しくも懐かしい夢に溺れたって、誰も咎める人なんていない。 僕が総帥に従った理由。総帥が約束してくれた僕の願いは「幸せになりたい」だった。今思えばそれですら酷く輪郭が曖昧な願いだ。そこに内包されていたものは、僕がいてもいい場所がほしいということ。 昔から泣き虫で、友達もいなくて、ずっと一人ぼっちだった僕は何よりもまず愛情を欲しがった。それを与えてくれる両親ですらずっと幼い頃に失って、本当の意味でひとりになってしまった僕にとって、世宇子という場所は本当に第二の家のような場所だった。友達も家族も仲間も、全員がその役割を同時に持っている。第一の家をなくした僕にとって、二度と失いたくはなかった居場所だったはずなのだ。 それなのに、ようやく気付いた。本当に馬鹿なのは誰でもない僕自身だ。 「キャプテンとしての責任の方が、仲間としてのみんなへの気持ちよりも勝ってしまったんだね」 ふと上から降ってきた声。閉じていた瞼を開けて仰げば、目の前には少し前の僕――決勝戦で負けた日の僕自身が立っていた。 「…そう、かもしれない。結局僕も人への対等な接し方なんて、もうほとんど忘れちゃってたんだよ」 「チームを引っ張るキャプテンとして気丈に振る舞わなきゃならない。だからずっと泣くことなんてできなかった?」 「…はは、やっぱり僕なんだ。そうだね、僕自身が泣くことを、頼ることを望んでないふりをしてきた。皆はきっとそれを受け止めてくれたのに」 情けない。この頃からもう、みんなの気持ちはずれてきていたんだ。本心では子供のように誰かに甘えたくて仕方ないのに、背にのしかかった重みや責任が自分の涙を封じ込めてきたのだ。 「でも本当に、世宇子である必要はあったの?愛してくれる人なら誰でも良いんじゃなくて?」 そう問いかける声は、世宇子に入ったばかりの頃の自分。皆に出会って幸せを手にしたと思っていた頃の僕だ。 「ただ居て良い場所が欲しかっただけなのに、そのための手段が勝ち続けることになってたなんて、そんなの報われないじゃないか」 「…それでもね、僕には皆が全てだったんだよ。僕には皆が神様だった。大切な友達で家族で、僕を救ってくれる存在だったんだ」 だって、彼らの代わりなんてどこにもありはしないもの。 誰かの一番になりたいわけじゃない。ただ強くなりたかった。強い心が欲しかった。弱虫な僕をみんなが支えてくれたように、今度は僕が彼らを支えていきたかった。世宇子として始まったあの日のように、誰が欠けても成り立たないように。 結局、僕はどうしようもなく意地っ張りで、そのくせ子供のように寂しがりなのだ。なのに甘え方なんてとっくの昔に忘れてしまっている。たちが悪いにも程がある。悔しくて折った膝を一層強く抱いた。 「世宇子じゃなくてもいいじゃないか。雷門ならきっと僕を受け入れてくれるよ。だって、あんなに頑張ったんだもの」 「……」 「ここにずっと居ても良いんだよ。だってここは僕を裏切らないし、僕を一人ぼっちにしたりしない。ほら、見て」 どこか甘やかすような高い声は、僕の記憶の中の、限りなく最初に近い自分の姿。彼が指差す通路の先には、酷く懐かしい影があった。遠くからその影が僕の名前を呼ぶ声が響く。それは狭い通路によく反響し、体中を駆け巡る感情の渦が脚を自然に動かした。 今までひたすらに閉じ込めてきた涙が、一気に溢れて流れていく。僕は震える声で、しかしはっきりとその人を呼んだ。 「――母さん!」 駆け寄って優しい腕に収まると、その手は真綿で包むように僕を撫でる。暖かくて懐かしい香りが身体を包んだ。まるで子供返りしたようにしゃくり上げる声が青い空間に響き、背中は丸まったまま震えるのをやめてくれない。 見返りがいらないなんて、そんなの嘘だ。皆が帰ってきてくれることで、僕がやってきたことは無駄なんかじゃなかったんだと証明してほしかった。一人ぼっちはこんなにも寂しいから。だから僕が世宇子を守ることで、一人にならないための場所を守っていたかったのだ。 これは夢なのに、ずっとこの夢の中にいたくなってしまう。現実に戻りたくないわけじゃないのに、目覚める力も留まる勇気もない。臆病で泣き虫なただの人間になってしまったのだ。泣きじゃくる僕を優しい掌が撫でる。暖かさに目をぎゅっと閉じた時、小さく細い声が耳に届いた。 『照美、起きるよね?本当にただの貧血なんだよね?』 『大丈夫だ。だからもう泣くな』 『俺のせいだ、俺の身体が弱いから…俺のせいで照美が死んじゃうんだ…!』 『光!』 平良と光の声。これはいつだか、貧血で倒れて運ばれた時の会話だろうか。もうしばらく聞いていなかった、懐かしくも愛おしい声。母さんのそれとはまた違う、僕の大好きな声。 どこから喋っているんだろう。こんな風な光の泣き声も平良の切羽詰まった声も、初めて聞いた。こんなに長い間一緒にいたはずなのに、まだ知らないことがこんなにあるなんて。 涙を拭って、そっと僕を抱きしめる腕から離れる。俯いたまま呼吸をすれば、全身に生の音が満ちていた。 「ごめん、母さん。やっぱり僕、みんなと一緒にいたいみたいだ」 ――そうだ。もう母さんは戻らない。だってあの水族館の帰り道に、事故で。 でも彼らはまだ居る。僕の知らない色んな彼らがいるはずだ。僕が守っていくことができたなら、これからも一緒に生きていくことができる。それこそ、本当の家族みたいに。 「だって、僕みんなのこと、大好きだから」 笑ってみせた。嬉しかったのだ、自分自身を顧みた末の答えはこんなにも単純で、そして暖かい。 もうそろそろ起きよう。全てはそれから考えればいいんだ。 夢の終わりの、その後で。 |