アクアリウム | ナノ

例えるならまるで、淡水魚が海に放されたような感覚だ。いきなり自分たちの居場所が無くなり、今までと違う常識の中で生きていかなければならない。
そうなったら、きっと生きるのも手探りだろう。周りとの違いにあっぷあっぷともがき、這いずるようにでもしないと、前に進む方法が分からないのだ。

今までなら多分、それも下劣だ卑しいと言って捨てていただろう。でも今は違う。そうやってがむしゃらに、泥まみれになってでも取り戻したいものができたから。そのために僕ができる事を、諦めの悪い彼らから教わったから。
だからもう、方法なんて選ばない。



世宇子スタジアムの最深部。扉が開けばそこは薄暗く、冷たい空気で満ちていた。
総帥がここのモニターで試合を見ていて、そこを刑事さんに捕まったというのは後で聞いた話だ。聞くところによれば、帝国学園の時も似たような場所で指揮をしていたらしい。暗闇が好きなのかは分からない。でも彼は暗闇に好かれているのだ、とは少し思う。

僕らに厳しかった総帥。甘い蜜を貰う分、それ以上に苦い経験もたくさんした。特にレベルの高い薬を長期間、大量に摂取していたせいか、決勝戦以降の僕の体調は芳しくない。後遺症と言われたその症状のせいで、薬を注射しないと全身が弛緩して歩く事もままならなくなる。
毎日打つため、腕にはいくつも跡が残った。その変色した肌が醜くて正視に堪えなかった僕は、ユニフォームであるリストバンドも未だに外せないままだ。

恐ろしいほど静かな無人の部屋では、僕が歩く度に靴音が響いては消える。実験三昧の過去を思い出すと、僅かに足がすくんだ。今でも総帥の纏う空気が少しだけ恐ろしく感じる。それでも一歩ずつ歩を進めた。
誰もいないのに、そこに息づいた記憶と存在感が呼吸をやめない。

「…総帥、」

一段高くなっている椅子の手前、僅かに低いとこまで来て歩みを止めた。無言の背もたれが重々しく、それだけで拒絶されているような、相手にされていないような感覚を覚えた。この部屋には、あまりにも強く『彼』の存在が根付いている。

「今日は、あなたと決別するために来ました」
何も言わない椅子に向かって呟いた。そう言ってしまうと、心にずっとあった枷が外れたような気がするのが不思議だ。
僕はもう広い海に放された。だから何にも縛られない。

「夢、があるんです。できたんです。きっと今までずっと心の中にあったけれど、無理だと諦めていた。そういう夢でした。…でも今なら初めて、自分で叶えたいと思える」
勝手に走り出した言葉は止まらなかった。走るように、唇は言葉を紡いでいく。

「僕ができる何かを、誰かのためにしてみたい。誰かのために役に立ちたいと思うんです。それが自分のためだったとしても、自分の手で今を変えたい。
僕は、僕の進みたい道を行きます。…もう、貴方の影に縛られない。ようやく僕は、僕になれます」

そこまで言って、息を吸った。
今までの事が脳裏に蘇るようだ。幸せだった頃からの転落、世宇子でみんなと出会った日の事。ここでなら望んだものが手に入ると信じて頑張り続けた日々。それが苦痛に変わり、信じたものが壊され、新たな可能性を拾った決勝戦。

「でも僕は、今までの選択を後悔しません。いつかこんな事もあったんだって、自分のした事を償って誇れるものにしたい」
きっとそのどこにも総帥がいた。そして今、やっと分かった。僕は、僕の望みは。

「…僕はきっと幸せ者なんです。貴方に出会ったことでサッカーを知って、仲間ができて、居場所をもらって、本当に幸せでした。だから今度は、自分で幸せを掴みにいきます。…今まで、ありがとう、ございました」

とめどなく押し寄せる言葉を一気に溢れさせ、それから目を閉じて深々と頭を下げた。そのまましばらく動けずにいたけれど、瞼を開ければより鮮明に、自分の気持ちが見える気がする。
下げていた頭を上げ、薄暗い部屋を後にした。扉をくぐる直前、少しだけ胸の奥が詰まったけれど、それでも一歩踏み出して敷居を跨いだ。

エイリア学園の来襲から数ヶ月。沖縄での試合をテレビ中継で見た時、決意は固まった。今日、フロンティアスタジアムで試合があるらしい。そこで運命を試すのだ。
扉が閉まる音がした。もう迷わない。


「さよなら、総帥」


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