小説―稲妻 | ナノ


にょたゆり



朝の喧噪がひしめき合う教室の隅で、神童はその姿を見た。がらりと実に愛想のない音を立てながら開かれた戸の向こう、そこには昨日までとは違った雰囲気をまとった霧野が、足を踏み入れるその姿が見えた。
霧野が戸を開けた瞬間に一瞬教室の空気が静まり返る。辺りの空気の流れが止まったように見えて、神童もまたその霧野の姿に目を奪われた。ただその止まってしまった時間もそう長くは続かず、霧野が辺りを一瞥して踏み入れた足を前に進めると同時に壊される。霧野は神童の座る教室の隅に向かっていた。

「おはよう、神童」
「おはよう……」

霧野は神童のひとつ前の席だ。自分の席に鞄を提げ、くるりと後ろを振り返って座る。その動作ひとつひとつは昨日までと変わりないはずなのに、大きく変わってしまった霧野の姿が妙な違和感を神童に与えてくる。
ぎこちない挨拶を返し、視線を襟足に向けた。すると霧野も神童の視線の行き先に気付いて小さく口を開く。淡泊な声で、神童から少しだけ視線を逸らしながら。

「霧野、それ…」
「ああ、…切ってみたんだ。どうかな」

霧野は首筋にかかる程度にまでばっさりと切られた襟足をつまみながら、そう微笑んだ。神童に問いかける声はいつもと変わらないものなのに、その裏にあるものにまで妙に勘ぐって邪推してしまう。神童は一瞬言葉につかえたが、視線を違える霧野に向かって微笑みかけた。

「よく似合ってるよ」
「本当か?」
「うん、可愛いと思う」

差し障りない言葉を、と思って口にした言葉は、一瞬だけ霧野の表情を明るくした。だが、僅かに乗り出した霧野の笑顔は、その次の瞬間に少しだけ固まる。

「そ、っか」
「霧野?」
「あ…ああ、ごめん何でもない」

そう言った霧野の表情は少しだけ不自然に笑顔を作った。



「今日、神童の家に行ってもいいか?」

帰りのホームルームの時間も終わり、部活に向かう生徒たちがぞろぞろと出ていく。せわしない流れの中で、前の席に座る霧野がそう呟いたのを聞き逃さなかった。
どうも、朝の出来事から妙に霧野の様子がおかしい。いくつもの授業中、板書を取る霧野のさっぱりとしてしまった首筋を見つめながら、出もしなさそうな答えばかり探していた。気分を悪くさせてしまったようならきちんと謝りたいとも考えたが、昼食の時も休み時間も、どこかその話題を出しにくかったのだ。だから神童は霧野からそのチャンスを与えられたその瞬間、二つ返事でOKを出していた。

続かない会話をぽつぽつとして、どこか気まずい雰囲気の中、神童は自室に霧野を招き入れる。ソファに腰かけた霧野をちらと見ながら、ここが自分の部屋だという事にさえ疑問が浮かんだ。なぜ、霧野といるのにこんなに緊張しているのだと。

「お茶持ってこさせるからちょっと待ってて」
「いいよ、誰も入れないでくれ」
「誰も…って、」

開きかけた扉を閉め、霧野を見る。少し俯いた霧野の表情は前髪でよく見えないが、落とされた声は落ち着いた色を持っていた。
誰にも話せないような話題なのだろうか。よく失恋すると髪を切るなんて話を聞くが、そんなもの少女漫画か何かでしか見たことのないような空想じみた行為だと思っていたが。

「誰にも聞かれたくないんだ。こんなこと」
「…何かあった?」
「…俺にも、よく分からない」

霧野は男のような言葉遣いをする。可憐な外見とは裏腹に、私服だってボーイッシュなものばかりだ。昔はそんなことなかったのに、と薄らぼんやりと過去を思い起こしながら、神童は霧野の深く闇に落としたような声を聞いた。

「……失恋、とか」

ぽつりと呟いた声に霧野の息遣いが止まる。立ったままの神童からは、うんともすんとも言わないつむじだけが見下ろせた。そのまま何も言わない霧野に失言したか、と自分の発言を胸中で叱咤しながらも、一つ隣のソファに浅く腰をかける。

「…馬鹿だって、思うだろ」
「そんなこと…」
「ううん違うんだ、俺……俺は、お前が思ってるようなことは……」

段々と絞り出すような声になっていく霧野を、腰かけたソファから腰を浮かせるようにして覗き込む。伏し目がちになっている霧野の瞳には、消え入りそうな光が揺らめいていた。
神童がその肩にそっと手を伸ばすと、俯いていた霧野の右手が手首を掴む。はっとして掴まれた手を引こうとすれば、空いた方の霧野の掌が神童の目を覆った。

「きり…」

一瞬で真っ暗になった視界の中、掴まれた腕が静かに寄せられるのが分かった。
霧野の掌は少しだけ、ほんの少しだけ震えている。その気配が一気に近づいたのが分かった瞬間、目隠しになっていた掌が外れていく。開けた視界の中、互いの呼吸が聞こえるほどの距離で見つめ合った。その瞬間の霧野の瞳が泣きそうな色で揺れたのだから、神童は吸い込まれるようにして動けなくなる。脱力しきった体温が、静かに霧野を受け止めた。
音も立てずに触れた唇が、薄い皮一枚を隔てて熱を共有する。開いたままの眼で、伏せられた霧野の長い睫毛が切なげに震えたのを見た時、どこかに置いてきてしまっていた意識がようやく神童の中に戻ってきた。

表面だけなぞったような、触れるだけの口付けは長くは続かなかった。そっと離れていく霧野は目を合わせない。静かに重く沈殿する空気だけが、二人の間を埋めていた。

「き、りの」
「ごめん……」

霧野は泣くような細い声でぽつりと呟いた。それはこの場の空気と混ざり合うこともなく、不純物のように落ちてコロンと鳴るような音だ。

「馬鹿だ、俺…こんなこと」
「……き、」

名前を呼ぼうと詰まらせていた息を吐き出そうとした瞬間、伸びてきた両腕に抱き着かれる。ふわりと揺れた風が髪を揺らし、霧野のまとう香りが鼻腔をくすぐった。薄い肩が、背中が、少しだけ震えていた。

「どうして、お前のこと好きになっちゃいけないんだろう」
「なに……」
「お願いだから、嫌いにならないで…」

霧野の腕の強さが一層強くなる。そんなことあるはずない、と、そう言う前に蚊の鳴くような呟きが、耳元で鳴った。

「お前には大勢のうちの一人でも私には、私の中の一人は」

背中がぎゅうと掴まれる瞬間、痛いほど冷たく感じられる涙が制服のシャツに染みていった。短くなった襟足が首筋をくすぐる感覚はこんなにも切ないのに、どこへ行くことも出来ない掌は、未だ不自然に丸まったままだ。


::120115