小説―稲妻 | ナノ

人じゃないみたいだと思ってたんです。違うんだと、俺とは違うんだと思い込んでいたんです。


「今日はみんなよく頑張ったね。明日からまた一緒に練習頑張ろう。今日はこれで解散」
「ありがとうございました!」

試合が終わり、学校へ着いた頃にはもう日も落ちてきて、互いの顔も薄暗くしか見えていなかった。監督の声でみんながそれぞれの帰路に着くと、腕章を置き忘れたことに気付いた。鍵は監督の手元にある。戻らなければ、と踵を返せば、不思議そうな表情で「どうしたんだ?」と跳沢に尋ねられた。苦笑混じりでそのことを伝えれば、紫がかった影がくしゃっと歪み破顔する表情が返ってくる。それが心地よくて切なくて手を振った。

部室の扉をそろそろと開けると、ミーティング用の長椅子に腰かけた監督の姿が見えた。組まれた脚が視界に響くような印象を形作り、手元の資料を見つめていた目と目が合う。

「忘れ物かい?」
「は、い。腕章を置いていくのを忘れてしまって」
「何畏まってるんだい、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」

ふふ、と口許に手を当てて笑う監督の目元が優しくて、心臓を抓られるようなチリッとした熱さと痛みを訴える。思わず自分の胸元を強く掴んだ。歪められたジャージの布が濃い影を落とす。
部室の扉を後ろ手に閉め、自分でも分からないその竦んでしまう右足を踏み出す。監督と目を合わせづらいなんておかしい、馬鹿げている。

「僕が預かっておくから、暗くなる前に帰るんだよ」
「……監督、」
「何だい?」
「…監督は、これからもずっと、木戸川の監督でいてくれますよね?」

腕章を手渡す手が震えている。情けなくて泣きたい気持ちだけが膨らんでいくのが分かった。俯き加減で落とした言葉が、ひ弱な音で地面にぶつかる。指先で軽く触れた監督の手は暖かくて、指がすらりと長くて、俺よりも大きかった。その温度に安心したはずなのに、安堵とも不安ともとれない妙な気持がふわふわと心の四角い箱の中でぶつかっては跳ね返り、そればかりを繰り返していく。

だって、監督はこの日のために来てくれたような、そんな気さえしてしまうんだ。だから怖くなるし不安になるし、泣きたくなる。

「…俺、監督のこと本当に木戸川の恩人だと思ってます。すごい人だっていうのも知ってます。でも、だから…少し怖かったんです」
「……」
「こんな事言うの失礼だってちゃんと分かってます。でも、どこか俺たちと違う世界の人みたいで、俺たちのことを見届けたらフラッと消えてしまう気さえして…」
「…そんなことないのになあ」
「だ、だから…勝手な思い込み、で」

言いたいことが頭の中をぐるぐると駆け回ってがんじがらめに絡まっていく。意味のない言葉の羅列を繰り返すうちに目の前がぼやけてきた。
もう嫌だな、こんな姿見せたいわけじゃなかったのに。

「く、くやしかった、です…今日、ちゃんと勝ちたかった。監督のいる木戸川は強いって、証明したかっ、た」
「あはは、大丈夫だよ貴志部。僕にはちゃんと伝わったよ、嬉しかった。ありがとう」
「…監督……か、勝てなくて、すみませんでした…っ!」
「うん、泣いちゃえ泣いちゃえ」

そう言って笑いながら俺の頭を撫でる監督は、やっぱりちゃんとした「大人」で「男の人」で俺たちと何ら変わりなかった。監督はやっぱり、監督だった。監督の手ごと腕章を握りしめた俺の手に、ぼたぼたと涙の粒が落ちていく。生ぬるい温度が手の甲を伝い落ちた。

「それにね。貴志部は僕のこと違う世界の人みたいだって言うけど、僕だってちゃんとご飯食べるし、歯を磨くし、車だって運転するし、夜は眠るよ」
「…おれの親とおんなじです…」
「そう、同じだ。変わらないよ。よく言われるけどね、人間味がないってさ」

もう慣れっこだから今さら気にしないさ、と笑い混じりになだめるような声色はただ暖かかった。そうやって笑い話にできるほど、監督は俺より長く生きてきて、ちゃんと人間っぽくて、触れるほどに近くなっていく。だからこの人を好きになったんだ。この人のもとで戦っていきたいと思えたんだ。

「来年は勝とう。明日からまた頼むよ、キャプテン」

落とされる声が優しくて涙を飲み込む。はい、と返事をしたらそれが変な声になって、少しだけ笑った。



( ふたつゆびのすきまから )



::111208
::書いてたらごく自然に泣いてた。お疲れ様木戸川。