ゼミが終わり、喧噪に飲まれた廊下に出ると、そこはむせ返るような夏の気温で溢れていた。教室が涼しかった分、余計にそう感じる部分もあるのだろう。昼の日差しに反射する携帯電話の画面を見れば、そこには新着メール一件とあった。むっとする廊下を出口に向かって歩きながらメールを開けば、東京の秋姉からのメールだった。
大学を故郷の沖縄にしたこともあって、東京とは距離がある。中々顔を見せることのできない俺を心配するメールや電話を、秋姉はしょっちゅうくれるのだ。上手くやってる?とか単位大丈夫そう?とか、そんな他愛もない会話ばかりだけど、秋姉とこうして連絡を取り合うのは好きだった。いつもそうやって楽しい会話になるから、今回もまた何の気なしに受信ボックスを開いた。開かれたメールの本文は短いものだった。思わず足を止める。生ぬるい風が足元をすり抜けていった。
『サスケが、もう危ないみたいなの』
*
家に帰って部屋の戸を閉める。汗が滲んだ服も着替えずに、背負った鞄だけ乱暴にベッドに投げ捨てて携帯を取った。秋姉のアドレスを開く手がおぼつかなくなるのが情けない。ようやく発信した頃には思い出したように汗が噴き出てきて、走ってきたせいか息を吐くペースも早くなっていた。 三回の呼び出し音の後、秋姉の久方ぶりの声が俺の名前を呼んだ。
『天馬?』 「秋、姉…サスケ、どうなった…?」 『今家の中に上げてるわ。外は暑いから』 「そっか……」
とりあえず胸を撫で下ろす。安堵の溜息が重く深く、俺の喉から吐き出された。それきり何も言えなくなってしまった俺に、秋姉が「でもね、」と続ける。
『苦しそうなの、わかる?』 「…俺、もうすぐ夏休みだから…なるべく早く帰るよ」 『そうね。そうしてあげて』
電話線の向こうから、秋姉の声に混じってグウ、グウ、という低い声が聞こえてくる。電子音の混ざったそれは、秋姉の傍にいるサスケのものだろう。逆に声が出なくなってしまったのは俺の方だった。秋姉の優しい声が、今はこんなにも苦しい。
『何かあったらまた連絡するわね』 「……うん」
電話を切った後、ひどく疲弊しているのがありありと分かった。いつか来ると分かっていたけれど、いざその事実を目の当たりにすると途方もない虚無感と無常感が押し寄せてくる。 何かあったら、って。そんなのもう一つしかないじゃないか。
*
どんなに辛いことがあっても、それは俺の私情にすぎない。だから学校ではいつも通りでいなくちゃならない。授業にもちゃんと出席して、苦手な語学のノートをきちんと取って、必修である体育の単位を落とさないためにも、朝から身体を動かさなければならない。 そのいくつもの場面で会話するのが苦痛だった。笑顔でいなきゃならない苦痛。自分が別の世界に来てしまったかのような苦痛。別のことを考えなくちゃならない苦痛。それでも気づかれてはならないのだ。気づかれて追究されようものなら、話したくないのに話したくなってしまう。泣きそうになってしまう。 秋姉との電話の翌日は何もなかった。安心したいのにできない時間の経過に溜息ばかりが漏れる。考えたくないのに考えてしまう。いっそ休んでしまえたら良かったのに、なんてらしくない事がいくつも頭の中でちかちかと光っては消えていく。 明日は土曜。何も気兼ねなく休んでいよう。どうせ何日経ってもこの先は不安しかないのだから。
明日も明後日もぐるぐると時間は廻っていく。その中に少しでも思い出と呼べるものを残したくて、大切な家族だから、それはすごくすごく悲しい。もう駄目なんだと、そう諦めてしまえればどれだけ楽になれたのだろう。本当はそう言って自分を慰めて、しょうがないことなんだよって、そう誰かに言ってほしくてたまらなかった。でも諦めたら捨ててしまったことになりそうで、怖くて怖くて眠れずに夜は更けていく。結局空が白んできた頃、ようやく意識を手放した。
*
目が覚めたのはお昼を回るか回らないかの時間だった。暑さで首筋をつたっていく汗が気持ち悪い。目を開ければ、枕元に置いてある携帯電話が目についた。まだ輪郭の周りが白くぼやけているそれを手に取ると、ひときわ冷たい温度が手に伝わる。それを開けるのが今、少しだけ怖い。 目を閉じて枕に顔をうずめる。そしてそのままゆっくりと、折り畳み式のそれを開いた。 息を吐いて、みっつ数える。閉ざされていた瞼をゆるりと開けると、着信履歴が一件とあった。6時48分、発信者は秋姉。 心臓から全身に向かって大きく脈打つ感覚が広がっていく。どうして気づけなかったのだろう。答えは簡単のなずなのに。
上体を起こし、秋姉のアドレスを開く。不思議と前のような震えはなかった。 発信して三コール目で秋姉の声が聞こえてきた。電子音混じりのそれは俺の起き抜けの頭をより鮮明にしていく。
「秋姉、電話気づけなくてごめん」 『ううん、こちらこそ朝早くにごめんなさいね』 「…サスケ、」 『……今朝、ね』
どこまでも優しく静かな秋姉の声が俺の耳に響いては抉り取っていく。それを俺はどこかで理解していたように聞いていた。覚悟はできていたはずなのに、どうしてこんなにも虚しく悲しいんだろう。多分、分かっていたからこそ悲しいんだろう。
「…俺、結局間に合わなかったね」 『…でもね天馬、サスケ嬉しそうだったのよ。天馬が来てくれるって言ったら次の日は少しだけ元気になったもの』 「……」 『犬って、そういうの分かるのかな。『もう頑張らなくてもいいのよ』って言ったら楽そうになったの。…だから天馬もあんまり自分を責めないであげて?』 「……ねえ、秋、姉」
秋姉の落ち着いた声を聞いていると、どんどんその話が現実味を帯びていくような気がした。くっきりとしていく事実に、頭のどこかで今までの日々が流れていく。目の奥がツンとして、喉の奥からこみ上げてくるものを耐えようとしたら、みるみるうちに情けないほどの涙が溢れてきた。携帯を持つ右手に左手を重ねる。震えていた。絞り出した声も、また。
「…そんな、映画みたいな風にさ、…言わないで……」
涙声と鼻をすすった声に、電話向こうの秋姉が黙る。俯いて膝を折った。指に力が入って丸まっていく。
「きれいなだけの、思い出みたいにしないでよ……俺だってさ、ほんとはそこにいたかったんだよ……」
そこまで無理やり声を出したら、秋姉が小さく『…ごめんね』と呟く声が聞こえた。 本当に、なんて残酷なんだろう。こんな一日でもちゃんと顔を洗わなくてはならないし、着替えて歯を磨かないといけない。課題をやらなきゃならない。考える時間なんてありそうで、その実全然なかった。明後日にはまた学校で他愛のない話に笑わなきゃならない毎日が来る。
木枯らし荘に帰ったとして、俺は現実として見られるだろうか。それこそ、夢物語のように扱ってしまうのではないかと怖くなった。 ずっと顔見せられなくてごめんね、とか、遊んでやれなくてごめんね、とか、そういう後悔ばかりを持って帰りそうで嫌になる。電話を切った後、洗面所に向かった。冷たい水を両手で掬って顔にかければ、冷えた感覚に全身が目覚めていく。 帰ったら、まず最初にただいまと言えるようにしよう。後悔や謝罪じゃない、いつもと変わらない言葉を。それだけでまだ、少しだけ救われる。 そこまで思ったところでまたとめどなく出てくる涙を水で流した。排水溝に流れていくそれはどこまでも拙く、臆病で、弱虫だ。
::111119
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