小説―稲妻 | ナノ

かじかんだ手先の感覚はとうに失われていた。昼すぎから降り出した雪は段々と強くなり、今は地面が真っ白になるまでに積もっていた。
自分の髪が雪で濡れていくひんやりとした感覚を、膝を折って享受する。その間にも虚しさだけが心に溜まっていくようだった。それを外に吐き出す方法を、雪村は心得てはいない。

吹雪と約束した時間はとっくの前に過ぎてしまっていた。今は幼い子供が拗ねた時のそれと大差はない。ただゴールポストの固く冷たい背もたれに身を委ね、丸く小さくなった三角座りのまま来るあてのない師の姿を待っている。頬をすり抜けては体温を奪っていく風は、どこまでも冷たく意地が悪かった。
深々と、慰めのように身体に積もる雪を気にする気にもならなかった。ただ望みのないよすがを待つ自分が虚しくて仕方なくて大嫌いなのだ。感覚を失ったはずの両手が痺れ、痛みを訴え始めていることを無視してしまえるほどに。

眠れるものなら眠ってしまいたい。雪村は膝を抱えたまま、ゆっくりと瞼を閉じた。

「雪村豹牙!」

耳に馴染みのない声が、雪村を呼んだ。それは切羽詰まったような色をもって、雪原と化したグラウンドに響き渡る。

「いつからこんな所にいた、凍傷にでもなったらどうするんだ」
「……誰」
「…話は後だ。建物の中に行くぞ」

見たこともない生徒がなぜか自分のことを気にかけている。サッカー部のジャージを着ているということは部員のはずだが、雪村は自分の手を掴んで引き起こす彼の顔を見たことすらなかった。

雪村の痩身が勢いをつけて起こされる。手を掴まれた瞬間、指先から引き裂かれるような鋭い痛みが走り抜け、思わず眉をしかめた。異常に気付いたのは目の前の彼も同じらしい。強く掴んでいた手を離し、渋面を浮かべながらも、ユニフォームに包まれた手首の少し上を今度は優しく握って立たせる。雪村の手は赤く変色し、それこそ氷か何かのように冷くなっていた。
いじけてしまえれば、どこへ行くあてもないこの感情の渦を閉じ込めてしまえたのに。それを許さない一歩半前の手は泣きたくなるくらい暖かい。痛みの余韻はまだ抜けなかった。


「部屋が温まるまで時間がかかる。毛布か何か…肩に掛けられるものは?」
「…棚の一番上に」

ストーブを炊いた部室のソファに座らせられ、凍ってしまった両手を湯気の立つ湯に浸ける。暖かい場所にいると逆に寒さを思い出すようだった。座ったままの肩の震えが止まらない。くたびれて色の落ちた毛布がその薄い肩と丸まった背中を覆うと同時に、上から呆れ混じりの声が落とされた。

「解凍されるにつれて痛み出すと思うが、少し我慢しろよ。帰ったらすぐ病院に行くんだ。全く、本当に凍傷一歩手前だぞ」
「何でここまでするんだよ」
「…自分の立場分かってないのか?白恋のエースだからだよ」
「あんた、一体何者?」
「白咲。新しく白恋のキャプテンになった」
「……」

雪村は淡泊な声を聞きながら、心のどこかで辻褄が合ってしまったことを信じたくなかった。どれだけ待っても現れなかった師を、いっそ憎んでしまえたらどれだけ楽なことか。だが、自分でも信じられない程彼に心を許し、預けていたのがこんな状況になってより鮮明に分かる。その証拠に、尤もらしい理由をつけて彼が白恋を去った事実を綺麗なものにしたくて仕方ないのだ。

「……吹雪、…コーチは、なんて」
「何も言わなかったさ、その程度だったんだろう」
「そんな事あるはずない!」
「どうかな。現にチームの統制が取れていなかったようじゃないか。君とチームメイト、随分と折り合いが悪いようだが?」

白咲のもっともな言い分に雪村は黙り込む。最後に見た吹雪の背中を思い出すが、彼が自分の練習に付き合ってくれたことはあっても、自分はチームメイトと仲良くあろうとした事なんてなかった。
そんな自分に見切りをつけたのだろうか。こんなチームは嫌だと、だから厄介払いのつもりでフィフスセクターに預けたのだろうか。そんな暗鬱とした妄想ばかりが浮かんでは消える。どこか嫌味っぽい白咲の言葉が耳の奥を引っ掻いた。やがて部屋に沈黙が生まれる。ストーブの音がやたらと耳障りに思えて仕方ない。

そんな思考を現実に引き戻すのは、手先からじくじくと痛みを及ぼす刺激なのだ。だんだんと痛みは増していき、眉根に深い皺を寄せて突き上げてくる感覚に堪える。痛みに意図せず動いてしまう足がソファを蹴った音に、窓の外を見ていた白咲が振り返った。その顔には先程のような余裕のある笑みは浮かんではいない。

「痛むか」
「……っ、」
「唇を噛むな、切れるぞ」
「……あんた、俺をどうしたいんだよ。フィフスセクターの奴なんだろ、何でこんなことわざわざするんだよ」
「…傷心のエースを慰めて懐柔するため?」
「…死、ね…っ」

悪態をつきながら絞り出した声は、死にかけの動物のように掠れていた。痛みに生理的な涙が滲む。その涙は決して痛みだけからくるものではない事に、雪村本人は気が付かない。

「どうせ何とも思ってないくせに変に優しくするな、利用したいだけのくせに…っ!」
「……」

雪村の目から一粒の涙が落ち、手を浸した水面に小さな波紋を作る。その数がみるみる内に増えていき、拭うことさえできない雪村は子供のようにしゃくり上げた。

「…お前、面倒臭いってよく言われない?」

はあ、と控え目な溜め息をついたその声は、気取っていない素の色を持って響く。しかし自分の世界の中で泣きつづける雪村は、思い出すことができないのだ。膝を抱えて意識を手放したくなるほどの孤独の中で自分を呼んだ彼の、不相応に焦りを混ぜた声色を。


::111118


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