小説―稲妻 | ナノ


「雷門中に行きましょう」
開口一番姉さんが提案したのは、実にとんでもない事だった。俺は固まったまま苦笑いを保ちつつ、表情一つ変えないいつもの姉さんの顔を見ながらおずおずと口を開く。
「えーと、姉さん。ここは山梨だよね」
「そうね」
「電車で行くにしても、車を運転できる人がいないと…」
「それなら問題ないわ」
歯切れの悪い俺の言葉を両断するように、力強く姉さんは言い放ったのだった。

「私が運転するもの」



姉さんは基本的に、一度決めたことはやり通す主義の人間だ。今更待ったをかけても無意味なことは経験上よく分かっている。だから姉さんの運転を止めるのは諦めて、メールで救援を呼ぶ事にした。
内容を言わなければさして問題もなく集まってくれるだろうと思ったが、何かを察したのか砂木沼は丁重に断りのメールを送ってきた。ネオジャパンにいた頃に大切な事を学んだのだろう、事前避難という訳か。
だが、どうせ5人乗りの車では呼んだ全員が乗るには定員オーバーだ。あとの3人には悪いが、俺と一緒に道連れになってもらうことにしよう。

「ヒロトー、急な頼みって何?」
「緑川、丁度良かった」
「お前も呼ばれたのか」
「俺たちまんまとはめられたんだよ、こいつに」
駆け足で現れた緑川に安堵の気持ちで胸を撫で下ろすと、既に集まっていた晴矢と風介に若干刺さる言葉を頂いた。何も知らない緑川は首を傾げるが、来てもらった以上真実を話す他あるまい。

「実はね、姉さんが免許を取ったらしいんだ」
「へえー、確か5回受けて全部落ちたっていう話だけど、まあ良かったね」
「それに同乗して欲しいんだ」
「うん、死ねって?」
にこやかな笑顔で即答され、俺は両脇の晴矢と風介を含めた三人にパンと手を合わせる。
「近くのコンビニまでにしてもらったから、お願い。姉さんは多分運転したいだけなんだ。俺が責任持ってナビするから!」
「見返りは?」
「…好きなアイス奢る」
「乗った」
「早いな風介。俺ブラックサンダーな」
「…しょうがないなあ。ヒロトには色々お世話になったし、まあちょっとだけなら」
「ありがとう風介、晴矢、緑川!」
三人の手を纏めて握ると、姉さんの乗ったと思われる車が物凄い速さでバックしながら現れた。三人は丁度背になっていたが、その凄まじい音に三人揃ってすぐさま振り返る。

「さあ、みんな乗りなさい」
「…俺たち生きて帰れるのか?」


すっかり暗くなった夜道は、街頭や店の明かりで薄ぼんやりと光る。あれから車が門を出るまでに20分程掛かり、ようやく広い道に出た頃には後部席の三人は疲れで口数が激減していた。
『300メートル先、右方向です』
カーナビの声だけが静かな車内に響く。最初の曲がり角に差し掛かろうとしたまさにその時、隣の姉さんが爆弾発言を投下した。

「もっと手前の角の方がいいんじゃないかしら」
その瞬間、姉さんを除く車内が一瞬にしてざわついた。
「ね、姉さん。カーナビの通りに走った方が」
「こういうのはね、大概回りくどい道を提案するものなのよ。次の角を曲がりましょう」
「うおぉいナビ山しっかりしろよおおぉお」
「殺す気か」
「何その名前!?姉さん待っ…うわっ!」
「ハンドル切りすぎだって!痛った!」

必死の晴矢にツッコミを入れたところで車は急に方向を変える。一番左に座っていた緑川は勢い良くドアにぶつかったらしく、右二人の体重に押し潰されているようだ。
「風介テメェ無駄にのしかかるなよ!」
「私は最高に気分がいいが」
「俺を潰したまま喧嘩しないでってば!」
後方から聞こえる声で情景がありありと想像できる。そして激しい方向転換の後、一息つく間もなく猛スピードで車は走り出した。
「晴矢!晴矢!そ、外の景色が」
「見るな余計怖くなるぞ!」
「何でこう免許取り立ての人って無駄にスピード出したがるのかな…」
「姉さんスピード落として!」
「まだ70ちょっとよ」
「一般道で80キロとか出そうとしないで!」

その後も後ろからはしばらく阿鼻叫喚の声が絶えず、俺もまたフロントガラス越しの景色と白バイに恐怖しながら、案の定迷った道をナビゲートし直した。その度急な方向転換に叫び声が止まなかったが、運転手だけが涼しい顔で荒々しいハンドル捌きをこなすのだった。

死に物狂いでコンビニに着いたは良いものの、バック駐車という難関が待っていたことを忘れていた俺たちは再び地獄に突き落とされた気分になった。風介が髪を弄る音が車内に無情に響く。
「姉さん落ち着いて、ゆっくりね」
「分かっているわ」
だがその瞬間いきなりバックした車内は大きく揺さぶられ、油断していた風介が運転席のシートに額を思い切りぶつける音がした。
「踏みすぎ踏みすぎ…うわあっ!」
「もう良いよ止まれ!」
「ゆっくりで良いから!」
皆が騒ぎ立てるのを聞いているのかいないのか、ブォンという不吉な音が数度に渡って鳴る。その度風介は額をぶつけ、ようやく暴力的な駐車が終わってシートベルトを外すと、長かった戦いから解放されたという安堵から長い溜息が出た。

「ようやく終わった…」
「拷問だった…」
「『虎口を脱する』とは正にこの事だな」
「皆、本当にありがとう…」
車を降り、四人で向かい合って長い戦いを共闘した仲間に笑顔を向ける。普段ならありえない妙な友情が生まれた瞬間、俺は思い出してはいけない事を思い出してしまった。

「…そういえば、帰り…」
「あっ」
花咲いた喜びが、一瞬にして萎えた瞬間だった。