小説―稲妻 | ナノ

目が覚めた時、電車の車窓の向こうに見える景色は一面の田舎道だった。
稲妻町に行くために電車に乗ったというのに、どうやら乗り過ごしてしまったようだ。迂闊だった。昨日寝付きが悪かったのが原因で間違いないだろう。規則的な揺れを生む車両には俺一人しかいない。やけに静かな電車の中仕方なく立ち上がり、俺は扉の上に貼ってある路線図を眺めた。

「え……」
頭上を見上げて路線図を目で追っている内に、そこに確かに存在する違和感に固まった。思わず唇から漏れた声を気にする余裕もなく、ただただ自分の目を疑う。
今まで通り過ぎた駅に、稲妻町に続く駅がないのだ。最初、電車に乗る時はちゃんとあったはずなのに。何かの間違いではないかと頬をつねるが、痛みだけがジンと広がっただけで何も変わらなかった。

『終点、××駅です。お忘れ物のないよう――』

頭上から聞こえてきたアナウンスに意識を呼び戻される。どの電車とも変わらない普通のアナウンスだ。景色の流れる速さもゆっくりになり、やがてぴたりと止まる。プシュー、と間抜けな音を立てて扉が開き、外の生温い空気が割り込むように入ってきた。
…何だか大変な事になってしまったようだ。


車掌さんに聞いても、そんな駅は通っていないと返されてしまってはどうしようもなかった。次に出る電車は明日。携帯電話も繋がらず、ただの荷物と化している。こんな田舎に身一つで、一体どうしろというのだろうか。
夏の残滓である蝉の、僅かに残った声が聞こえる。やがて無人駅に立ち尽くす事に心細くなり始めた頃、遠くから軽快な靴音が聞こえてきた。

「あ、ヒロト!おかえりー!」
視界に映り込んできたのは、深い赤色の髪をした男の子だった。その外見を見て俺は目を見開き、息を呑む。まるで自分の中の時間が止まってしまったかのように。
間違う筈もない。何度も写真を見て知っていた。明るく笑う彼は、まさしく吉良ヒロトその人だったのだ。

「早く帰ろう、父さんも瞳子も待ってるよ」
「ちょ、え、待っ…」
今しがた起こった事に頭がついていかないまま、俺は彼に手を引っ張られながら駅を後にした。
…一体、何が起こっているというんだ。

「…あの、ヒロト、さん」
「どうしたの?急によそよそしくなって。いつもみたいに『兄さん』で良いのに」
「えっと、…にい、さん。これ、どういう事?」
田舎道を歩きながら、斜め前を歩く彼に尋ねる。さも当たり前のように言われた言葉も咀嚼するのに時間がかかる。上手く話そうと無理矢理平常心を盾にしても、全てが現実では有り得ない事に、気が動転してしまっているのだ。
だって『彼』は、もう既に――

「どういうって、ヒロトは合宿に行ってたから迎えに来たんでしょ?」
「合宿…」
「帰ったら勝負しようって自分で言ってたのに。変なヒロト」
そう言ってクスクスと彼は笑った。俺の肩に背負われたスポーツバッグを開けると、中には確かに合宿にでも行ってきたかのような荷物が入っていた。電車に乗るまではそんなことなかったはずなのに。
これは、夢か。だとしたら、なんて意地悪な夢なんだろうか。



「ただいまー!」
「た、ただいま…」
見慣れた吉良家の引き戸を彼が開ける。山あいにひっそりと存在する屋敷は、どこか周りと隔絶されたような雰囲気を纏って佇んでいた。彼が靴を脱いで上がろうとするが、未だにこの状況に慣れない俺は玄関に棒立ちのままで、意味もなく周りをキョロキョロと眺めてはやり過ごす。そんな事を繰り返す内に、奥から控え目な足音がこちらに向かってきた。

「おかえり、兄さん。それにヒロト」
「姉さ…っ」
現れたのは瞳子姉さんだった。ただ、俺の知る姉さんよりも顔つきが幾分か幼い。中学生くらいだろうか。雰囲気は通じるものがあるから、おそらく本人なのだろう。本日3度目の衝撃に眩暈を覚えた。姉さんを見つめたまま固まる俺を、二人が目をぱちくりとさせながら見つめる。
「…ヒロト?どうしたの?」
「さっきからおかしいんだよ。合宿で何かあったの?」
「え…と、大丈夫、ごめん…」
心配を苦笑いで返しながら、俺は先の彼と同じように靴を脱いだ。おそらく、俺は二人とずっと一緒に暮らしている弟といった設定なのだろう。何が何だか分からないが、とりあえず話を合わせた方が良いのは分かる。慣れてきた頃事情を話そう。そしてこの状況をどうにか打開するのだ。

「父さん、ヒロトが帰ってきたわ」
少し歩き、座敷の襖を開けながら姉さんが呼んだ名前に俺はぴくりと無意識に反応してしまった。仕切りの向こうに座っていた見覚えのある佇まいが、こちらをゆるりと振り返る。

「おかえり、ヒロト」

俺の名前を優しい声色で撫でた、父さんの姿だった。