小説―稲妻 | ナノ

静かな教室は小さな物音さえも余さず拾って反響させる。ぐしゃ、という紙屑が立てる音は、マイクで拾ったように教室に響き渡って空気と同化した。皺の寄った眉間は、手の中でぐしゃぐしゃになった紙をどこか連想させる。固く刻まれたそれがほどける様子はない。

佐久間が座る席からは教室全体が広く見渡せた。夕方の色を携えたその中身は、どれも茜色の影を落として佇んでいる。
かつて鬼道の席だったそこは、もう鬼道の席ではなかった。佐久間の覚えている最後の鬼道の席は、今は別の誰かのものになり、等間隔に並べられた机の中に鎮座して実物大のジオラマを築いていた。

佐久間は4つ前のその席を見つめ、目を細めた。光が瞼の縁を彩る。眉間に皺を寄せて口を一文字に結んだ表情は、せき止めた感情の波を必死で抑え込んでいるかのように見えた。自然に止められていた呼吸を思い出す頃、ようやく波は障壁を崩すのだ。
唇がわななき、細く吐き出した吐息は肩の上下に釣られるかのように震える。握った手の中で紙屑が今一度音を鳴らした。それが合図だった。

「…佐久間?」

キュ、という靴音が耳に届いた時にはもう遅かった。廊下から近付いてきた音は教室の前で止まり、中途半端に開けられた後ろの扉の向こうから小さな声が放たれる。佐久間の座る席からは、声だけで誰が来たのか分かった。だから佐久間は振り返らない。ただ俯いて鼻をすするだけだ。

「ど、どうしたんだ、何かあったのか?」
「…ばっかやろ…タイミング、悪ぃんだよ…」
「す、すまん…」
無人の教室で啜り泣くチームメイトを見て、今しがた通り掛かったばかりの源田は狼狽を隠せない。根が優しい彼だ、放っておけないとそこから動けずにいる。
「…入っても、いいか?」
控え目に呟かれた源田の声に佐久間は無言で頷いた。源田は僅かにほっとした様子で敷居を跨ぐ。まるで佐久間の心の中に足を踏み入れたような擬似感覚を覚え、すぐさま掻き消した。元より源田は不器用なのだ。

「目、擦ると腫れるぞ」
「…るせ、ハンカチなんて持ってない」
「…すまん、…これ、俺ので良いなら」
「謝んな、馬鹿源田」
佐久間はそう源田を罵倒しながらも差し出された濃紺のそれを受けとった。そこまでは良いが握ったまま動かない。見兼ねて源田が佐久間からハンカチを奪って濡れた頬と目元を拭うと、佐久間は自分でやると言うように、源田の手からハンカチを奪った。変に皺の付いてしまったそれに涙が点々と滲む。

「…何かあったのか」
「……」
「い、嫌なら無理して言わなくても良いんだが」
「…お前に見栄張っても仕方ない、か」
佐久間はそう言って肺に溜まった空気を一気に吐き出した。落ち着かせるためであるのに、そんな細い息でも空気は泣くように震える。くん、と喉が詰まり、呼吸も話すのも苦しい。

「…鬼道をさ、好きなのは、嘘だったんだ」
「……」
「ただの憧れを勘違いして、ずっと本物だと思ってたんだ、おれ」

佐久間の持つ紙屑――チョコレートの包み紙が震える。
それは、佐久間が昔鬼道から薦められたものだった。辛い練習に疲れた佐久間を見て、鬼道が自分の持っていたそれを譲って以来、佐久間は鬼道の真似をして同じ物を買い続けていた。鬼道が持つには何となく珍しい、一つずつ紙に包まれて箱に入った、甘さの控え目なチョコレート。
だが感情の正体に気付いてしまった今、ささやかな幸せであった鬼道と自分とを繋ぐそれは、佐久間を刺す刺であり、縋り切れない糸であった。

「鬼道と同じフィールドに立って分かったんだ。俺、鬼道のこと好きだけど種類が違う。今までは全部嘘だったって、無かった事にしなきゃって」
「……」
「…ダッセェよなあ、ほんと」
口元は引きつった笑みを作るが、掌で隠された目や震える小さな声は、無理をしているのがありありと分かる。もう良いよ、構わなくて。そう呟いた佐久間に源田は低く落ち着いた声色で言った。
「捨てなくても良いと思う」
「…は、」
「これも、今までの佐久間の気持ちも。それだけ大切なものだったなら、無理に忘れようとしたり捨てたりしなくても良いんじゃないか」
源田は机上の箱を見遣る。顔を上げた佐久間が同じように視線をやった。

「いつか、佐久間に本当に好きな人ができるまで、きっと大切にした方がいい」
佐久間の濡れた瞳が揺らいだ。ゆっくりと手を伸ばし、箱の中に残るチョコを一つ手に取った。包み紙を剥がして口に運ぶと、チョコの味が口内に広がる。傍らにずっと前の事が蘇るようだった。

「……苦い、なぁ」

ボロボロと零れる涙を拭う事もせず、ハンカチを握り締めたまま咀嚼した。甘さは鼻を抜ける苦味に掻き消され、少しだけ涙の味が広がった。



(やさしく傷口を抉ったの)