小説―稲妻 | ナノ

「師匠、肩叩いてあげる」

寝る前に師匠の部屋にそっと入って、後ろ手にドアを閉めながら言った。師匠は相変わらず寝酒の癖が治らなくて、枕元に酒の入った瓶が置かれているのを見て思わず表情が緩んでしまう。
「何だ、急にそんな事を言い出して」
「ナツミに聞いたんだ。師匠のいた国では、今日はご老人を敬う日なんだって」
師匠は僕に背を向けたまま、静かに呟く。薄暗い部屋は夜の蒸し暑さで満たされているけれど、窓から入り込んでくる風は少しだけ肌寒かった。そんな部屋の中で唯一煌々と暖かい光を放っているのは、酒瓶の隣に佇むスタンドライトで、僕と師匠をオレンジ色の人工の光で包む。

「…お前までワシを老人扱いか」
「まあまあそう言わずにさ」
師匠の側に歩み寄り、ベッドの縁に腰掛ける。トン、トン、と規則的に肩を拳で叩けば、師匠は独特のあの笑いで自嘲した。僕はそんな師匠が訳もなく大好きだ。

師匠だってサッカーを教える時以外は何だかんだ言って優しいし、甘い部分も少なくない。多分それは自分の子供や孫にそうしてあげられなかったから、その分が僕らに回ってきたんだろうと思う。それが当たり前だった頃は全然何にも気にしなかった。
師匠と僕はまるで本物の祖父と孫のように生活してきたのに、師匠が僕に向けていたあの優しい目を僕以外に向けるなんて、想像もつかなかったから余計に苦しくなっていった。慈愛に満ちた瞳はもう僕のものじゃなくて、マモルのものだ。いや、元々僕じゃなくて、師匠は、ダイスケは、僕を通してマモルを見ていたのかもしれない。きっと、誰も答えなんて教えてくれないだろうけど、多分そうなんだ。

「ロココ、お前中々上手いじゃないか」
「えへへ、そうかな。…ありがとう」
「まるでお前が孫になったみたいだな」
「…もうずっと、僕はダイスケの孫だよ」
「確かにそうかもしれないな」

トン、トン、トン。
会話をしながらも僕の両手は肩を叩き続ける。師匠の背中は頼もしかったはずなのに、なぜだか今とても小さく見えた。
トン、 トン 、

「……ロココ、どうした?疲れたか?」
「…ううん、何でもないよ」
僕の手が止まったのを不思議がって師匠が振り返る。変わらない優しい眼差しは、僕だけを捉えた。黒い瞳の中に僕の辛気臭く笑う顔が映る。師匠の前では笑顔でいたい。きっとそういうのが師匠が欲しがる孫だから。

「……おじいちゃん、」

ポツリ、蚊の鳴くような声で呟いてみた。
自分でも不思議なくらいするりと滑り落ちた言葉に驚いた。それは師匠も同じだったようで、ぼんやりとした光の中で師匠は不思議そうに言う。
僕は手を動かすのを再開して、口元を吊り上げた。僕だって結局、マモルの真似をしてるだけだ。本物の孫に成り済ましているに過ぎない。でも、それでも僕は、


「どうしたんだ、急に」
「…何でもない。言ってみたかっただけだよ」