小説―稲妻 | ナノ

濡れた髪が頬に張り付いて少しだけ気持ち悪い。右手の指でそれを払って口元までお湯に浸かると、ちゃぽんという水音が浴室に響いた。湯気に掻き消された音の余韻に耳を澄まし、僕は僕の目を瞼で覆った。
途端に暗くなった視界の中で、天井からの明かりを瞼越しに捉えようとする。両手で顔を覆えば、暗かった視界が更に闇の色を深くしたのを感じ、ああ今のは灰色だったんだ、とぼんやりと思った。

みんなが飛行機に乗ってこの国を出たのは、二日前のことだ。僕は韓国のタクティクスを前に怪我をして、緑川くんと一緒に居残り。同じ空の下なのに、こんなにも惨めなのは何故だろう。悔しさか、悲しさか、淋しさか。どれを取っても当て嵌まらないような気がして考えるのを止めた。今の僕はただ怪我を治して、早くみんなの元へ行く事だけを考えればいいはずなんだ。


前にも、こんなふうにサッカーが出来ないときがあった。今もサッカーが出来ない事には変わりないんだけど、身体が言うことを聞いてくれないのとアツヤの亡霊に縛られていたあの時とでは訳が違う。どうしようもなくて胸がぎゅう、と締め付けられるような気がした。
癖で、今もたまに無意識にやってしまう。胸の前でマフラーを握る、あの動作。もうそこには何もなくて、僕の心の内側にだけ、アツヤの魂が宿っている。
それなのに、今何となく彼が恋しくなって仕方なくなっている。あの鮮やかな山吹色の、乱暴で荒々しいけど優しい強さを湛えた、あの色が。

瞼の裏に映る色が、アツヤの色だったら良いのに、と思う。心を抓られるようなチクリとした痛みを振り払うかのように、僕は体操座りをしたまま顔を湯舟に浸した。
ゆらゆらと揺れる水面は、僕を溶かしてドロドロの液体にしてしまいそうだった。

ねえアツヤ、僕虚しいんだ。気付いたんだよ。誰かがいないと僕はどうしようもなく孤独を思い出して、自分の無力さに嫌気がさすんだ。なんて弱いんだろう、って。
アツヤならどうする?僕の中にいるなら、教えてみせてよ。

アツヤは、前のように声が聞こえないし、僕の身体を使って出てくることもない。でも、少しだけ聞いてみたかった。
でも、当たり前だけど、答えなんて聞こえなかった。

僕と水面との境界線が無くなる感覚を覚え始めた頃、ようやく息苦しさがやってきて、大きな音を立てて水面から顔を上げる。濡れた前髪から絶え間無く水滴が滴り落ちた。
その雫に混じって、頬に生温いものが伝った。擦ってみると、浴槽のお湯と混ざり合って流れた涙だった。透明でお湯と区別なんてつかないはずなのに、何だかそれが見慣れた、どこか懐かしい山吹色に見えた気がした。次第に顔が歪んでいくのが分かって、両手で流れてくる涙を拭うけれど、いつまで経っても止まる様子はない。

「泣いてるの、アツヤ…?」

嗄れたような情けない声で名前を呼んだ。でも、浴室には僕が立てる湯舟の水音しかしなかった。アツヤぁ、と子供のように呟けば、それに誘われるように涙が流れ、堪えられなくて目をぎゅっと瞑って再度湯舟に顔を浸けた。
僕を優しく迎え入れた温度は、涙のように生温かった。