低く唸るようなエンジンの音がしたから、きっと下校のバスの一便は出てしまったのだろう。 とりたてて耳をそばだてていた訳でもないのに、すっと難なく入ってくるような音だ。だから別に集中力が散漫していたわけじゃない。きっと、そうだ。
冬の校舎はただでさえ寒いのに、無駄に広い美術室は冷たく冷えた空気を抱きしめて離さないと言うように、特段肌寒く感じる。ストーブは放課後の使用が禁止されている上に、こんなに薄いカーディガンでは秋のはじめくらいの恰好とちっとも変らない軽装甲だ。二便の出る時間までわざわざ残ると決めていたのに、そのための準備らしい準備をすっかり忘れてしまっていた。その代わりと言っては少々頼りないが、さっき買ったコーンポタージュの缶が机の上に鎮座している。
5時を回った窓は、赤から紫へ、そして濃紺へと見事なグラデーションで染め上げられた空を映す。運動部は一便に合わせて切り上げるから、いつも部活中に響いてくる外からの声も鳴りを潜めている。今はただ教室に設置された時計の秒針がコチコチと動く音しかしない。それから、もう校門を出てしまったであろう、バスの音も。
冷え切った教室の一番後ろで、俺は立ったままキャンバスと向き合っていた。 飛ばしてしまっていたらしい意識が、さっきのバスの音で戻ってきた。もうかれこれ数十分、こうして何もしないまま突っ立っているだけだ。手も汚れていない。それどころか容器にたゆたう水すら、底の色が透き通って見えるほどに透明だ。何をしているんだ、と溜息を吐けば、室内であるにも関わらず息は白く濁った。
その静寂を壊すように、前の扉が無造作な音を立てた。いきなり生まれた音に多少驚いて顔を上げれば、入ってきたのはよく見知った後輩ではないか。自分だけで作り上げた世界を壊された憤りよりも、今はこの場を占める閉塞感と重みを打ち壊してくれたことに笑みがこぼれた。
「どうしたんだ、こんな時間に」 「…これ忘れたんで」
後輩である久雲仁太は、入ってくるなりずんずんと教室を闊歩した。一番右側の机の群れ、その一番前の席をがさごそと漁る。そうして引きずり出したものを俺にも見えるように、くいと上げた。ペンケースを忘れたらしい。
「お前いいのか?バス通だろ、一便出たぞ」 「しょうがないんで二便待ちます」 「いいんだ」 「急ぐ用もないんで」
淡々と打ち返してくる仁太の声は、冷えた教室中に溶ける。俺の声もまた。 そうしてまた静かな空間が生まれた。だけど一人のあの空間とは少し違う。別に閉塞感はなかった。もとより仁太は口数が少ないから、彼が喋らない事はそこまで息苦しさを感じさせない。心地よくも感じられる無音だ。
「それ、コンクールのですか」 「ん、まあ、そんなとこ」
どうやら次のバスが来るまでここに留まるらしい。仁太はさっきとは打って変わってのそりとした足取りで近づく。俺の斜め後ろからキャンバスを見つめた。
「これで完成?」 「いや、何か物足りないから足そうと思ってるんだけどさ」 「このままでも完成してるみたいに見えますけど」 「そう見える?」
透明な水の張った容器に二人分の声が落ちて、ぴんと張った水面が揺らいだ。 キャンバスに乗せられた濃紺は、窓に張り付くような空と似ている。紫や藍色を重ねた表面は、外に放ってしまっても見分けがつかないくらい真っ暗だ。その中心に描かれた苔むしたような色の檻だけが、紺色世界の中で違和感を放っている。 仁太は俺の問いかけにしばし黙った後、「先輩が言うならまだ完成じゃないかも」とぼそっと呟いた。
仁太の声は不思議だ。冬で掠れているはずなのに、ざらついた感じがしない。それどころか、角張ったものを擦るヤスリのように、俺の中の深いところに浸透してくる。その仁太の声が「…さむ、」と不快を示したようなので、思わず口許が緩んで机の上の缶を指差した。
「それ、冷めてるかもしれないけどやるよ」 「え、良いんすか」 「たまには先輩面させろって」 「…ありがとうございます」
暗鬱とした色を湛えたキャンバスからコーンポタージュの缶に視線を移せば、眩しいくらいの温かな黄色が目に映った。今はその色もチクリと痛みを生むようだ。それが目に痛くて、持ったまま仕事をしていなかった絵筆を置く。キャンバスを見るよりも仁太を見ていた方が余程面白い。
「…描かないんですか」 「…んー…何でだろうなあ。何か足りないのに、足したら壊れるような気がしてさ。これで終わりにしようか迷ってて、誰かに聞こうと思ってたんだ。これで完成させた方が良いのかをさ」
仁太はキャンバスに一番近い席に腰かけていた。そっちを振り返れば、いつもはそんなに変わらない表情が微妙にしかめられている。その表情を見て、どんな種類ともとれない笑みが、なぜか少しだけこみ上げた。
「で、俺に聞いたんですか」 「ん。でもやっぱり、お前が言う通りこれで終わりにしようかな」 「……先輩は、ずるいです」 「…何がだよ?」
仁太のいつになく低い声に、つられるように声のトーンが下がる。缶を机に置いた仁太は、そのまま喋り始めた。
「先輩はそうやって、誰かに引き留められるのを待ってるんですね。迷ってるならやってみれば良いのに」 「…じゃあさ、お前この絵の価値、証明できる?」 「少なくとも今の話聞いたら中途半端なままだってことは分かりました」
いけしゃあしゃあと、一週間分くらいの言葉数を放った仁太の意見に、尻すごみになってしまう。図星も図星だ。はあ、と白い溜息を吐けば、もう意地を張っている理由も見当たらなくなっていた。後輩相手に、何を。
「…スケッチとかデッサンなら誰にだってできるし、その中でも上手いって言われるよ。でもそれ以外は、てんで駄目だ」 「……」 「眼が悪いんだろうな。すごい奴って眼が違うんだ。『変』にならないと、その眼になれない」 「変に……」 「お前も変わってるなって思うよ。俺はお前の見てる世界が見てみたいってよく思う」
変な意味じゃなくてさ、と付け加えれば、微妙な表情をしていた仁太はまあるい目を俺に向けてくる。仁太は不思議な奴だ。上手く言えないけど周りとは違う雰囲気を持っている。仁太の視線に穴が開きそうだったから、俺の方から目を逸らした。
「…でも俺、美術の成績2ですよ」 「あー…多分それちょっと違う…」 「先輩、それ無いものねだりじゃなくて…見落としてるだけ、だと思う」
静かな教室に、今度は仁太の声は溶けなかった。そのまま固形になって、新しい音を響かせる。
「先輩にしか見えないもの、見落としてる」 「なんだそれ」 「…上手く言えないですけど。ただ勿体ないなと思っただけ、です…俺、先輩の絵好きだし」
そう言ったまま、きまりが悪そうに仁太は口を閉ざした。逸らしていた視線を彼に向ければ、飲みかけのコーンポタージュの缶を弄る指が目に入った。 少し丸爪の指先。俺と比べると僅かに骨ばっている手。それから、嫌に目につく黄色の缶へと。そのまま透明な水の入った容器の水底へ、絵の具の乾いたパレットへ、少しくたびれたイーゼルへ。順々に視線を移していけば、何だか妙におかしくなって吹き出した。
「…そうかもな」 「……ッス」
ぶっきらぼうに返す掠れた声が、心地よく耳を撫でた。好き。――好き、か。 俺の中に深く沈殿していた何かが、仁太の声によって滑らかになっていくようだった。キャンバスの中で異彩を放つ濃紺の中の檻も、自分で自分を閉じ込めるだけの檻じゃなく、そう、例えばいつか優しく壊すことができる檻なら。
「もうそれ、冷たいだろ。新しいの買いに行こうぜ」
仁太の手首を引いて、腰かけていた机から引きずり下ろす。よろめいた時の文句ありげな呻き声も今は無視だ。まだバスが来るまでにはたっぷり時間がある。自販機の場所へ行って帰ってきても、筆を進められるくらいには。
だから。帰ってきたその時にはこの濃紺の中に、そう、あのコーンポタージュの缶と同じような――柔らかな色を、足してやろうと思っている。
::120229
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