稲妻2 | ナノ

追放された者の殆どが記憶を消されるのは、野放しにされた彼らがうっかり計画の全貌を吐かないようにする為だ。それが例えキャプテン格であっても、だ。そんな事、ずっと昔から知っていた筈なのに。

「名前も、生い立ちも覚えてないって」
「そんなんでよく生きられたな」
「本当…あの子適応力なさそうだったし」
不思議だ、と毒づくヒロトの顔は、少しだけ憂いを帯びていた。こいつのこの表情には慣れない。まるで希望の全てを失った気がするからだ。

「それでも、風介にはちゃんと人の幸せを感じて欲しいな。何も知らないなら、新しく始めればいい。そうやって幸せになってくれたら良いなあ」
隣のヒロトは俺と同じ方角に身体を向け、目を合わせずに呟いた。お日さま園の門の前に立つ俺は、吉良財閥が用意したマンションで暮らしている。今になって誰かに拾われる事など考えていなかった俺にとって、一番楽な生き方だった。そこに俺の生活を心配したヒロトが来たりして、割と暖かい暮らしをしている。
人並みの幸せとは、そういうものだった。
そういった幸せを、風介は知らないでいた。だから、それを教えてやりたいとヒロトは笑う。でも知っていた。ヒロトが、自分を知らない風介に会うのが寂しいと感じている事くらい。

「幸せ、か」
「晴矢は、風介とどう向き合うんだろうね」
「さあな。全部忘れてても中身は一緒だ。また嫌味言われるのが関の山だろ」

晴矢。その名前も酷く錆び付いていて、他人の名札の様に感じた。自分の物なのにそうじゃないような感覚。バーンで居たからこそ強く在れた自分がいて、戦ってこれた事実があった。グランだからこそ辿り着きたい場所で、ガゼルだからこそ。その先は思い浮かばなかった。あいつは俺にとっての何だったかを、あんなにぶつかっていたのに思い出せなかった。

「来た。風介だ」
ヒロトに腕を掴まれて小走りになる。何を急いでいるんだろうか。本人もそれに気付いて足を止める。
すると、黒い車の後部席から、年相応の服を纏った風介が降りてきた。足が進まないらしく、瞳子さんに背を押され、その影に隠れるようにしてこちらに向かって来る。その様子が、始めて園に来た風介と重なって目を擦った。ヒロトが見かねて自ら歩み寄り、柔らかく笑いかける。

「初めまして。俺は基山ヒロト。よろしく」
「…涼野、風介」
自分より僅かに背の高いヒロトを見た後、目を逸らしながら風介は名前を口にした。見慣れた二人が揃っているはずなのに、そこには喉に引っ掛かる様な妙な違和感があった。
「…ヒロト、」
「ん、何?」
「変な事を言うが…君とは前に会った事があるような気がする」

俯き加減で風介が発した言葉に、ヒロトは酷く泣き出しそうな顔をして一瞬目を見開いた。

――大まかな事のあらましは伝えたらしいんだ
――でも、せめて人間関係だけは初めからやり直せるようにって、

さっきヒロトが言っていた事を頭の中で反芻する。風介は何も知らない、何も覚えていないはずだった。特に俺達の事なんかは。教えてはいけない、思い出させてはいけない。風介の幸せの為には、何も知らないでいた方がいいんだ、と。

ヒロトは水を抱く様に優しく風介を抱きしめた。抵抗はしなかった。寧ろヒロトの方が震えていたくらいだ。ヒロトは決して泣かずに、明るい声を作って言う。

「思い出さなくても良いよ、…風介にとって、きっと辛い事だから」

ガゼルとしての記憶を、というヒロトの声が聞こえた気がした。風介にとって『ガゼル』は何だったのだろう。俺にとってのガゼルは?関係を名前にするのは難しく、体の中心がわしづかみされる感覚に惑う。

「…よく、分からないけど」
「うん」
「何か、大切なものを落としてしまった気がする」
「うん、」
「…胸が苦しくて、寂しいんだ」
「そうか。…そう、だよね」

風介を抱きしめていた腕を解放し、二人は俺の方に視線を向けた。ヒロトが硝子細工の様な、泣きそうな微笑みを寄越す。風介と俺の視線が噛み合い、何となく気まずい雰囲気を作った。手頃な言葉が見付からずに焦る。以前なら、ここで嫌味を言われて喧嘩になって、何も気を遣うことなんて、こんな痛い沈黙なんてなかったはずなのに。
ここに居るのはガゼルじゃない、出会ったばかりの、赤子の様に無知な『涼野風介』なのだ。そしてあいつは俺を知らず、俺もまたあいつを知らないはずで。デリートされた記憶を頼って抜け殻の身体と向き合うなんて、信じられなかった。だけど、ふいに光を取り込んだブルーグレーの瞳が揺れ、ぽつりと、蚊の鳴くような声が耳に届いた。

「……バー、ン」

呟かれた名前に、ヒロトが驚愕の表情で俺と風介を代わる代わる見る。俺は一時停止したように動けず、かち合った視線を解けずにいた。どれだけの時間そうしただろうか、風介が視線を逸らし、すまない、と呟いた。

「何だか、急にその名前が出てきたんだ」
君を見た瞬間。そう言って口を閉ざした。呼ばれた名が本名でなくて良かったと思った。俺すら見失ってしまった『南雲晴矢』を記憶のない風介に口に出されたら、俺にとっての風介は何だと感じてしまうだろうから。結局、あんなに長い間一緒にいたのに分からないのだ。自分が、そして目の前のこいつが。
人の記憶なんて案外脆いもので、時が経てばいがみ合った記憶も認め合った記憶もこぼれ落ちて消えてしまうだろう。心のどこかでそれを忘れたくないと少しだけ思った。自分を証明する何かは、他人でなければ残らない。俺が何者かを他人が分かるように、この二人が何者かも俺が覚えていたかった。戦いに自分の意味を見出だしたバーンも、仲間思いのグランも、ライバルだったガゼルも、酷く優しいヒロトも、まっさらな風介も、そしてまだ朧げな晴矢も。

ヒロトも風介も晴矢も、今この時に生まれたものだと感じた。


「…名前、教えてくれないか」
真っ直ぐに俺を見て風介は言った。思い出させたいんじゃない、初めて会った時みたいに、ただ純粋に始めたかった。名前を呼んで、細いながらもつながりが欲しかった。そのことが、ずっと昔から戦いながらもぶつかりながらも願った、たったひとつの願いだったんだ。

ヒロトが微笑んで頷く。僅かに震える唇は、それでもちゃんと俺の声を運んだ。

「……俺は、」

下手くそな言葉は、しかしそれでも確かに俺の意思だった。風介の瞳が揺れる。

「南雲、晴矢だ」

瞳の向こう側に幼い頃の零れた記憶のカケラを感じた時、初めてぎこちないながらも心から微笑む風介を見た。