稲妻2 | ナノ

(8月29日)


「…宿題が終わっていない?」
カノンの口からポロリと零れ落ちた何気ない一言が、バダップの表情を険しいものに変えた。その細められた鋭い眼差しに射抜かれ、カノンはようやく自分が失言をしたということに気付く。背中を流れる汗は気温のせいだけではない。その汗が冷や汗だと気づくのに、そう時間はかからなかった。

「…え、と……数学のプリントとか諸々が……」
「…全く、やるべきことをやらないで遊びとはな」
「も、申し訳ありません…」

もっともすぎる言葉に、カノンはぐうの音も出ない。そのままバダップに向かって訳も分からず頭を下げてしまい、申し訳なさと情けなさが頭の中を埋めていく。地面に落とされたカノンの視線はバダップの靴の先を捉える。やがてその靴先がくるりと向きを変え、カノンは垂れていた頭を上げた。
「バダップ?」
疑問と不安がないまぜになった大きな瞳はバダップの背中を見つめる。そんな感情をぎゅっと押し固めたような声色で名前を呼べば、バダップは振り返らずに一言呟いた。

「宿題を片づけるぞ。話はそれからだ」



カノンは所謂鍵っ子で、円堂家の敷居を跨いで出迎えてくれたのは彼の飼い犬であった。
「俺の部屋でやろう。ちょっと散らかってるかもしれないけど」
「了解した」
「もー、その堅い喋り方はナシだってば。もっと普通でいいのに」
「…すまない、これが普通のつもりなのだが…」

カノンに苦笑いされつつ指摘され、バダップは左下あたりを見つめながら呟いた。それが彼にしては珍しい歯切れの悪い口調だったものだから、カノンは思わず頬が緩んでしまう。
飲み物持ってくるから、とカノンは部屋の扉を閉める。扉を背に、ほんの数か月前までは考えられなかった光景につい笑みが零れた。そして水滴がうっすらと浮かぶ二人分のグラスと共に戻り、バダップに自分の向かいに座るよう促す。

「それで、数学のプリントというのは?」
「あー…これなんだけど…」
あまり乗り気ではないカノンの声がエアコンの音に混じって部屋に溶ける。カノンが取り出したそれは10枚にもなる数学の問題で、「見るだけで嫌になっちゃうよ」と苦笑いを浮かべる。

「他の課題は何とか自力でできそうなんだけど、俺数学って苦手で」
カノンがそう言う向かいでバダップはプリントに目を通していく。何枚かめくったところで机上に戻し、「量が多いだけで基本的な問題ばかりだ。そんなに難しくはないだろう」と実に頼もしい芯の通った言葉をカノンに送った。カノンが目を輝かせたのは言うまでもない。

初めはうんうんと唸っていたカノンだが、バダップの的確なヒントによってコツを掴んだようだった。ようやく終わりに差し掛かったところで、カノンは疑問に思っていたことをぽつりと口にする。

「バダップ、聞きたいことがあるんだけど」
「どこだ?」
「ううん、数学じゃなくて…何でこんな時期に帰ってたのかなって」
カノンの問いにバダップは一瞬眉を動かした。そして少しだけ間をあけ、やがて結ばれていた唇を開く。

「…夏季休暇中は謹慎だっただけだ」
「謹慎って…もしかして」
「概ね予想と同じだろう。オペレーション失敗の罰だ」
そう低く落とされた声を聴きながら、カノンは紋章の消えたバダップの額をちらと見る。以前会った時には刻まれていた異形を彷彿とさせる印も、今の彼にはあまり似合わないな、と心の隅でそう思う。少しだけ柔らかくなった表情も、言葉づかいも、あの時とは僅かに違うのだ。

「…でも、俺はバダップにまた会えてよかったと思ってるよ」

カノンは最後の問題を解き終え、ペンを置いた。プリントの束をバダップが持ち上げて目を通す。その二つの赤が左右にせわしなく動くのを見つめながら、「…もっと酷いことされてるのかと思った。王牙ってなんか怖いイメージがあるから」と小さく呟く。
僅かに震えて吐き出されたその声を拾い上げるように、バダップはプリントを見つめたまま言葉を紡いだ。

「お前はよく分からないな」
「そうかな」
「ろくに会ったことも無い人間の安否を心配するのは、よく分からない」
「そんな事ないよ。だってバダップは…」

バダップの平坦な声にカノンが反論を返し終わる前に、声を重ねるようにしてバダップも口を開く。

「最後の問題、マイナスを付け忘れている」

バダップの言葉にカノンは一瞬目をぱちくりとさせ、やがて眉尻を下げた笑みに変わる。二人分のグラスの中の氷は、既に溶けきっていた。


リステッソ・テンポ



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