俺にはたった一人の兄ちゃんがいる。 兄ちゃんは俺より4つ年上で、名前は士郎といって、そして心臓に『へんなもの』を持っていた。 俺が知っている兄ちゃんはそれだけで、直接会ったことはおろか声すら聞いたことがない。でも何通か送られてくる写真に写った表情からは、何となくその人となりが受け取れた。 肌は真っ白でどちらかと言うと青白く、骨と皮しかないような細っこい身体をしていて、いかにも病人のような風貌だった。でもその目だけは優しい深い青緑で、俺と同じ色を宿していた。そして漠然と思ったんだ。「兄ちゃんを助けたい」と。 俺が兄ちゃんを助けられると知ったのは、それから間もなくだった。 何となく分かっていたけれど、俺は兄ちゃんの身体の一部をもらってできたスペアみたいなもので、兄ちゃんの心臓に『へんなもの』ができたと知った両親が、兄ちゃん専用のスペアとして俺を作ってくれと依頼したらしい。 俺の心臓が普通の心臓と同じくらい働けるようになったら、俺と兄ちゃんの心臓を取り替える。そうすれば兄ちゃんの心臓にできた『へんなもの』は無くなるという訳だ。 兄ちゃんの心臓は変わった形をしていて、『へんなもの』だけを取ったりするのはもちろん、他の奴らの心臓じゃ代えがきかないんだそうだ。 だから俺は正真正銘、兄ちゃんを助けられるただ一人。兄ちゃんのあの死にそうな身体を元気にしてやれるし、笑顔にさせてやれる。 俺は兄ちゃんの声も聞けないし顔も見られないけど、もっとずっと近いところでひとつになれる。それが嬉しくて楽しみで仕方なかった。 だからずっとこの日を待っていたんだ。 雪が降っている。 すごく寒い日なんだと分かった。廊下は部屋よりずっと冷えていた。でも俺を乗せた台が動き出す直前、いつも巻いていたマフラーは白い服のやつらに取られてしまった。急に首元が寒くなって身震いすると、白い服のやつの一人が妙に優しい声で言う。 「これは、またちゃんと返すからね」 なんだ、良かった。それなら何の心配もない。口元が緩むのが分かった。やっと兄ちゃんを助けられるんだ、という幸せで胸がいっぱいになる。 その時、頬に生暖かいものが流れたのを感じた。初めてのことにびっくりしていると、白い服のやつが神妙な顔で俺の頭をポンポンと二回優しく叩いて、それから無言で台を運び始めた。 これは何なんだろう。こんなもの知らない。でも、多分大丈夫だよな?だってこんなもの、心臓と関係ないもんな?だからきっと、何も心配はいらない。 扉が開いた。 ――これでようやく、ひとつになれる。 * 「士郎、調子はどうだ?」 「特別おかしなところは無いです。気持ち悪いくらい元気で」 「なら良かった。これでようやくサッカーできるな」 「そんな…まだ先の話ですよ。まずはリハビリして、学校に通えるようにならないと」 朝の病室の中で、士郎は長年の付き合いである自身の主治医、豪炎寺と他愛ない話をしていた。朝の回診で渡された体温計を脇に挟み、眉を下げるようにして笑う。 士郎の移植手術から数日後。一般病棟に移って更に数日経っても尚、記録的な積雪は続いていた。窓の外は一面真っ白に覆われている。 何気ない会話が僅かに途切れた直後、その雪と同じくらい白いものが、ふいに豪炎寺の手から士郎に渡された。士郎は不思議そうな表情でそれを受け取る。 「これは…」 「お前のドナー…いや、弟の所持品だそうだ。昨日渡されてな」 渡されたそれは、柔らかなマフラーだった。士郎はその言葉を聞いて振り返る。 「持っていてやってくれないか。最後まで大切にして、離さなかったらしいんだ」 士郎は手渡されたマフラーを見つめる。そこに、ふと小さく書かれた文字を見つけた。士郎がそれに気付いて豪炎寺を振り向く。 「豪炎寺先生…っ、これ、」 『14階 448番部屋』 そう書かれていた。すると疑問と狼狽を一面に湛えた士郎を横目に、豪炎寺はおもむろに置かれていた士郎の携帯電話を取った。 不思議そうな士郎の視線を浴びながら、豪炎寺はメール画面を開いて短い文字を打ち、一息置いて僅かに眉尻を下げた笑みでそれを見せる。 携帯を受けとった士郎は、自身の胸が強く脈打つのが分かった。 「『アツヤ』と、そう呼ばれていたそうだ」 士郎の携帯を持つ手が小刻みに震える。意味も分からず滲んだ涙が、視界を歪ませていった。マフラーを握りしめ直した時、空気を裂くように体温計の電子音が鳴り響いた。 『36度5分』 健康そのものであるその数字が滲んだ世界に映った時、胸の奥深くで確かに波打つ、暖かな拍動を感じた。 |